秘密
同棲中の彼女にはどうやら秘密があるらしい。

俺がそれに気が付いたのは同棲を始めていくらも経たないうちだ。

真夜中――いや、明け方と言ったほうが正確だろう。ふと覚醒した俺が見たのは彼女の後

姿だった。薄闇に、女の白い背中が浮かび上がっている。愛の名残に俺が腕を伸ばそうと

したとき、その背中がすっと宙に舞い上がった。

滑らかな臀部、それに続く陰り、すらりとした足―― 俺が見ていることに気付きもせずに、

どこへ行こうというのだろう。音を立てることもなく曲線が移動する。

ドレッサーの前で止まると、静かに引き出しを開け、何かを取り出している。カチリ、とかすか

に聞こえたのは気のせいかも知れない。

本? 暗がりで明かりも点けずに? ぱらぱらとページをめくっている。そして不意にまんじり

ともせず見つめると、次には開いたままの本を胸に抱きしめた。

それだけだ。たったそれだけなのに、俺の心はなぜか疼いた。見てはいけないものを見たよ

うな気がして、その後ろめたさに眠ったふりをしていた……

友人と映画を見に行くといって彼女が出かけたある日、俺は誘惑に負けてドレッサーを開け

てみた。

こまごまとしたものが雑然と並んでいる。化粧水の壜や口紅、マニキュア――おおよそ俺に

は興味のないものばかりだ。一目見て、目的の物がそこにないことは判った。

引き出しは一つきりだ。どこか別の場所に『隠した』のだと思った。

『隠した』―― 隠さなくてはならないものがそこにあるのだ。あいつはなにを隠したいのだ

ろう。それを確かめたい思いが抑えられるはずもなく、俺はたいして広くもない部屋のあちら

こちらを探し回った。見つからない。

持って出たのだな。そこまでして隠しておきたいこととはなんなのだろうか……?

言いようのない不信感を抱いたまま時間だけは確実に流れていく。その間、彼女が俺に向

ける微笑は以前と変わりなく、ただ俺の内部のしこりは出口のない水と同じ腐臭を放ってい

く。

「このごろ沈みがちね?」

薄闇の中、腕の中で女が呟く。お前のせいだ、とは言えない。

「仕事が忙しいからね。疲れているんだよ」

自分の声が、知らない他人の声に聞こえる。

俺の言い訳に納得したのかしないのか、背中にまわされた腕に力がこもり、生暖かな体が

ぴたりと寄り添ってくる。

突き放したい衝動と乱暴に抱きしめたい衝動が同時に俺を襲う。身動きできずにいると、接

吻を求めて女の唇が近づいてくる。

「タバコ…… 買ってくるよ」

その表情を知るのが怖くて、女の顔を見ずに俺はその場を逃れた。

一歩外に出ると凍った空気が、いかに俺が暖かな場所にいたかを思い知らせてくれる。

行くあてもなくふらついていると、人気のない公園が眼にとまった。ジャンパーのポケットに

手を突っ込むとタバコが入っている。そう言えば財布を持ってきていない。苦笑いを浮かべ、

ブランコに腰掛けた。

月のない夜だ。薄闇が、いつかの女の後姿を俺に思い出させる。

本を抱きしめて涙を流す行為が尋常なものであるとは思えない。何があの本には書いてあ

るのだろうか? しかも、俺に知られたくない何か……

考えても埒のあかないことをぐるぐると繰り返す。俺が腰をかけるのに選んだのがブランコと

いうのも皮肉だ。微かに軋む音が耳につく。錆付いた、そして引き裂かれるような叫び声

が、俺の心に反響する。

タバコのための炎に、部屋の暖かさを連想した。

不自然な形で部屋を出た俺を思い、あいつは今ごろどうしているだろうか? あの光景を見

てからの変化に気がつかないほど鈍感ではなく、それでいて、今帰ったとしても、いつもとな

んら変わりなく迎えてくれる、そんな柔軟さを持った女。だからこそ、愛しいと思っていたの

に、それを「したたかさ」と受け止め始めている俺がいる。

深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

(こうやって眺めると、紫煙というのは本当だったのだな)

ヘンなことに感心しながら、心の片隅でふと「枕草子」を暗誦していることに気付く。同時に

複数の動きをする心理を笑った。

部屋に帰るといつもどおり、ベッドに横たわる姿がある。多分眠ったふりだ。神経は鋭く俺に

向けられているはずだ。

同じ寝床に入ることにためらいを感じながら、そうしないわけにも行かず、ぬくもりの中に潜り

込むしかなかった――



薄闇に、女の後姿が浮かびあがっている。淡いピンク色なのはパジャマの色だ。そう言え

ば愛し合った最後はいつだったろうか? そんな惚けたことを思いながら、ぼんやりと眺め

る。

桜色が宙を移動する。忍び足で台所へと消えていく。暫くすると冷たい風が流れ込んでき

た。ドアを開けたのだ。

半覚醒だった俺の体はいきなり飛び起きていた。どこへ行こうというのだ? まだ、夜は明け

たばかりじゃないか! 

何も考えていなかった。行くな、どこへも行かないでくれ――それだけを心の中で叫んでい

た。

台所を見ると、やはり玄関の戸がうっすらと開いている。慌てて俺は飛び出した。

朝日が鋭く俺の目に差し込む。ひるんだ俺を笑っている。

「どうしたの?」

すぐそこに屈み込んだ女が、不思議そうに俺を見上げた。そのすぐそばに、俺をいぶかしげ

に見る猫の姿がある。

「なにしてる?」

「あら、聞いてなかったの?」

昨日、話したじゃないの。毎朝、餌をねだりに来る猫がいるのよ……

可笑しそうにくすくす笑う女と、彼女にまとわりつく猫を眺めながら、体から力が抜けていくの

を感じていた。

そう言えば今までもこんなこと、いくらもあったじゃないか。俺が聞いてないだけで、こいつは

俺に話しているのかもしれないじゃないか。あの本のことだって、きっと――

「なぁ……」

ひとりでに言葉が出てくることを不思議だとは思わなかった。

「結婚してくれないか?」

                                               (2002/01/28)
Copyright(C) 2002 Daybreak All Rights Reserved. 禁無断転載

戻る
広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー