Daybreak
「海がいいな」

まるで映画館で映画を選ぶように、さり気なく彼女が言った。僕は頷くと、駅へと続く道を黙っ

て歩いた。

夏になるには間がある。まだ人の目も少ないだろう。僕たちの目的にはうってつけに違いな

い。中途半端な時間の電車は思いのほかすいていて、僕たちはボックス席を1つ占領すると

二人並んで腰を掛けた。すがるように身体を寄せる彼女の肩を抱いて、僕は髪の匂いを嗅い

でいた。離れたくない、いつまでも二人でいたい・・・ 車窓から見える夕陽は燃え立つように

赤く、切ないまでに美しかった。

左手に海を眺めながら、電車はだんだんと闇に包まれていく。僕たちが降りたのは、以前二

人できたことのある海辺の駅だった。

人の目を避けるように浜辺へと出る。どこか懐かしさを感じさせる潮の香り、潮騒は耳に心地

よく、優しく僕たちを包んでくれる。

「どこかで時間をつぶそう」

チラホラと人影が行き交うのを気にした僕の言葉に

「人がいるところはいや」

泣きそうな声で彼女が答えた。近くを人が通るたび、僕の腕を掴んでいる手に力が込められ

ているのには気がついていた。限界かもしれない、そう思いながら僕は囁いた。

「二人きりになれるところ・・・に行くか?」

潤んだ瞳が僕を見詰めた。一人にはさせられない・・・ この子を置いてはいけないと、僕は改

めて思っていた。

記憶の中の道を辿り、前回ここに来たときに世話になった旅館に宿をとった。若すぎる二人連

れ、断られはしないかと危ぶんだが、支配人が僕たちを覚えていてくれたことと、前は予約を

入れての利用だったので身元が知れていることからだろう、すんなりと部屋に通された。ただ

あまりにも彼女が僕の陰に隠れ、顔を隠すようにしていたのは少しばかり奇妙に見られたかも

しれない。

窓から海を眺められる部屋で、寄り添って波の音を聞いていた。太古から続くその音はいつ

か鼓動と同調していく。

「生まれたところに帰っていくのね・・・」

ポツリと言った彼女の言葉に感情はなかった。

彼女の髪を指の間に遊ばせながら、僕はまだ若い母のことを思った。

母が父と知り合ったのは今の僕より2、3年上のときだ。すでに父には妻子があり、報われぬ

恋は初めからわかっていた。

やがて母の恋は周囲に知られ、母は自分の親の反対を押し切るため自らの家を出て、そこで

僕を産んだ。19歳の世間知らずのお嬢さんに赤ん坊をかかえての暮らしが立てられるはずも

なく、父の経済的援助があったのは言うまでもない。愛人、という言葉が聞えてくる。

いつ訪れるとも知れぬ父を待ち、赤ん坊を抱き締め、母は何を思っていたのだろう? 

「朝陽・・・?」

いつの間にか腕に力を込めていたらしい。訝った彼女が僕を見上げていた。

「・・・凪、だね」

彼女の疑問には答えず、僕はそう言った。風が止まり、海は静かだった。

「海、好きよ」

「うん・・・」

凪、は僕と同じような境遇の彼女の名だった。彼女には「戸籍上の実父」がいない。

「私のお母さんはね、こんなふうに波の静かな海を見て思ったんだって」

何度となく聞かされた彼女の名前の由来をそのときも凪は口にした。

「穏やかな幸せが、永遠に打ち寄せる波のように、いつまでも何度も私に訪れるように、っ

て・・・ だから私、『凪』って名前なの」

夜明け間近に生まれた僕に、母は「朝陽」と名付けた。「朝を待つ名前」母はそう言った。だけ

ど、僕は思う。母は朝なんか待ってなかった。待っていたのは父さんのことだけだ。だから、

朝日を見ては思ったはずだ。今日もあの人は来なかった・・・

「凪のお母さんは凪を愛していたんだよ」

「うん」

僕の言葉に満足げな笑みを見せた。

「そして今は、朝陽が私を愛してくれる」

答えの代わりに、抱く腕に力を込めた。

「いつまでも一緒よ・・・ 手を離さないでね」

知り初めたばかりの魂を溶かし合うような愛し方はどこか悲壮感を漂わせ、無意識のうちにそ

こに逃げ所を求めていた僕たちをさらに追い詰めていた。繰り返される囁きと溜め息の中に、

嗚咽が混じる。

「なぜ泣く?」

「朝陽も」

「俺は泣いてない」

「嘘吐き・・・」

凪の唇を接吻で塞ぐ僕の涙が止まることはなかった。初めて見つけた安らぎなのに・・・ 離れ

たくない、離れられない、そんな思いに支配されながら、きっと心の奥で、それももう終わりだ

と悲嘆にくれていたのだろう。ただそれを認めたくはなかった。

なぜ? なぜ? なぜ?―― 心が叫んでいた。

なぜ母さんは父さんを愛した?

なぜ父さんは母さんを受け入れた?

なぜ、なぜ母さんは僕を産んだんだ?

僕が小学校に上がる少し前、父の前妻が病死し、母は正式な父の妻となった。だがそのとき

にはもう手遅れだったのだろう。父を待つことですり減らしてしまった精神、そこに加え姑や継

子との折り合いは温室育ちの母にはどうしてよいか判らなく、母はだんだんと病んでいった。

それから程なく母は発症している。

それでも僕が中学生のころまではまだよかった。ときどき自分が誰だかわからなくなることは

あっても、いつでも穏やかな笑みを見せていた。気分のいいときは手ずから焼いた菓子を僕

の友人に振舞ってくれることもあった。若く美しい母は友人にも評判がよく、羨ましがられるこ

ともある。言葉や態度に出したことはないが母は僕の自慢でもあった。それなのに・・・

それなのに、なぜ? 近頃の母は、僕を見ると怯えて泣いた。父の名を呼び、助けを求めた。

なぜ? なぜ? 母さんは僕を嫌いになったの? それとも初めから嫌いだったの?

母の病状が急激に進んだのは、きっと僕のせいだ。だから母は僕を怖がるようになったのか

もしれない。

目の奥に痛みを訴えた僕を診た医者は言ったそうだ。手術しても助かるとは保証できない・・・

それを聞いた翌日から、母は僕を拒絶するようになった。

一番助けて欲しいときに頼るべき人はいなくなってしまった。父は仕事で忙しく、滅多に顔をあ

わせることもない。母親の違う二人の兄とは心が通わなかった。僕には凪しかいなかった。

でも、その凪は・・・

春に凪を襲った悲劇は凪をもまた蝕んでいた。極度の対人恐怖症になった凪は僕が一緒で

なければ、部屋から1歩も外に出られない。あの事件以来、僕の勉強部屋として用意されて

いたワンルームマンションで僕は凪と「暮らして」いた。

自分の家にいれば、口さがない世間の風はいつまでも凪を苛むだろう、と凪の義父は、凪が

僕の部屋にいることに反対することはなかった。凪の母親はとうに他界している。凪も一人ぼ

っちだったのだ。

家族から見放されていた僕を干渉する人はいない。僕たちは問題を抱えながらも、二人で肩

を寄せ合って生きていたのに、それなのに!

僕には凪しかいなかった。凪には僕しかいなかった。

助かる手術なら受けもしよう。だが、手術の途中で死を迎えることもあるかもしれないと知った

とき、僕は凪を思った。一人にはできない――

「海がいいな」

まるで映画を選ぶように凪が言った。黙って僕は頷いた。

そして今、二人してここで海を眺めている。黒い水平線の向こうがほんのり光を帯びているの

は夜明けが近い知らせだろう。僕たちの近くに人影はなかった。

「どこまでも一緒よ」

「うん」

繋いだ手に力を込めた。

水は生温く、そして冷たく染み込んできた。ゆっくりと沖へと歩いていく。しっかりと手を繋い

で・・・

ふいに足元がすくわれ、身体が急に沈み込んだ。強い力が身体を引き込んでいく。

「・・・・・・!」

反射的に握り締めたときには遅かった。海は誰にも同情しない。あるがままにあるだけだ。

引き離されていく凪を追って僕は叫んだ。

なぜ? なぜ? なぜ!?

なぜ母さんは父さんを愛した? つらい思いをすると判っていたんだろ? なぜ父さんは母さん

を受け入れた? 悲しませるだけなのに? なぜ母さんは僕を産んだ? 僕を拒絶するため

か? なぜ、なぜ、なぜ!?

なぜ凪は陵辱された? 親切に道を教えようとしただけじゃないか? それのどこがいけなか

ったんだ? なぜ僕は病に冒された? 僕が何をしたというんだ? 凪が何をしたというんだ?

そして、なぜ? なぜ僕たちは引き離されなければならないんだ?

海が僕をあざ笑う。苦しいのはお前だけじゃない。そして死は―― 必ずお前たちを引き離す

だろう。

やっとのことで凪の身体に取り縋り、気がついたら浜に引き上げていた。

「凪! 凪・・・」

ぐったりとして凪は返事を寄越さない。

「凪、目を開けろ!」

一緒に死のうとしていたことを忘れて僕は懇願していた。死んで欲しくない、凪、お前には生き

ていて欲しい。

「朝陽・・・?」

不思議そうな顔で凪が僕を見た。

「私、死んだの?」

その言葉に僕は笑った。笑いながら、涙を止められずにいた。

「生きているさ、死んだりするものか」

生きているからお前の声が聞ける、お前の名を呼べる。生きている―― 生きているからだ。

「俺は死なない、死ぬものか。お前と一緒に生きていく。だから凪、お前も生きろ」

なにがあってもお前を守る。お前を守って俺は生きよう。俺はお前を失いたくないんだ。

笑いながら泣きじゃくり、繰り返しそう訴える僕を、不思議そうな顔のまま凪は見詰めていた。

凪はなにか言いたかったのかもしれない。けれども何も言わずに水平線に視線をそらした。

「・・・日の出だね」

「・・・」

朝日は空を染め、黄金色に輝いていた。

この空を見て、母は何を思ったのだろう。暗く苦しい夜を越えて必ずやって来る朝に何を思っ

たのだろう。

「朝陽のお母さんも朝陽を愛していたのよ」

母の気持ちはわからない。それでも・・・

この美しい朝を、僕の名前にした母に愛がなかったとは思えなかった。
                                               (2003/03/12)
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