木立を抜ける風はいろんなことを知っているんだよ。なにしろ、向こうの山の、そのまた向

こうから、全部その目で見てきたんだ。僕はその風の声を聞きながら、よく森で昼寝した。

風は僕にいろんなことを教えてくれた。もうすぐ季節が変わるとか、雨が降るとか、大事な

ことは必ず伝えてくれるんだ。だけど1度しか言ってくれないから、聞き逃してしまうことも

ある。えっ? と、思ったときにはどこかに消えてしまってるんだ。

森はね、すごく静かなんだ。だから普段では聞こえない声が聞こえることもあるんだよ。子

リスが母さんリスに叱られてるのを聞いたこともある。カッコウが山の東側にはいい枝ぶり

の木があるなんて、噂してるのも聞こえたよ。だけどね、いつでも何かの音がしている。そ

れは葉っぱが風に擦れる音や、水が湧き出る音だったり、聞き逃してしまいそうな音ばか

りだけど、いつでもちゃんと聞こえているんだ。それが森の声なんだ。

僕はそんな森が好きだった。父さんに怒られて、家を飛び出すと必ずここに来た。大きな

木の根っこに蹲って泣きじゃくっていると、木漏れ日がキラキラと笑って「泣くことなんかな

いよ」と慰めてくれる。するといつの間にか涙も渇いて、僕はお腹がすいているのを思い出

すんだ。森はそんな僕に、ときどき木の実をご馳走してくれたよ。だけどそれを食べながら

僕は思うんだ。母さんのスープが食べたいなぁ・・・ 

暗くなりかけの森の中を、できるだけ僕は早く走った。母さんの顔が見たかったんだ。家が

見えてくるとドアの前にいたのは母さんじゃなくって、父さんだったけどね。台所から漂う匂

いに、お腹がギュって鳴ってたよ。

とにかく僕は大好きな父さんと母さんと、そして森に囲まれて、きっと幸せだったんだと思

う。幸せってものが本当はなんなのか知らないけれど、きっと僕は幸せだったんだ。


大人たちが父さんを囲んで難しい話をしていた。なんとかって国は横暴だ、とか、困窮して

いるのはその国のせいだ、とか、僕にはわからない言葉が飛び交っていた。

「ねぇねぇ、お母さん」

僕はそっと聞いてみた。

「戦争ってなぁに?」

すると母さんは悲しそうな顔をして、僕にしか聞こえない小さな声で言った。

「国と国とで殺し合いをすることよ」――

それからしばらく経ったある日、父さんは僕と母さんを守るため戦うと言った。父さんは母さ

んに言った。

「いつかお前にもわかるはずだ」

そして僕にも言った。

「お前も大きくなれば判る」

父さんは母さんの反対を押し切って、戦場に行ったんだ。戦場ってどこにあるの? 僕の

質問に母さんは泣くだけだった。

父さんがいないのは寂しかったけど、すぐに帰ってくると僕は思っていた。母さんはときど

き遠くを見るような目をしたけど、いつも変わらずおいしいスープを作ってくれた。いつもと

違うのは、思い出したように僕を見詰めるとギュウッと僕を抱きしめるようになったことか

な。もう赤ちゃんじゃないよ、僕はそういったけど、本当は嬉しかった。だけど、ちょっとくす

ぐったかったんだ。

やっぱり僕は幸せだった。幸せがどんなものか、言葉では言えないけれど、幸せだったん

だと思う。だって父さんは必ず帰ってくると信じていたんだからね。

聞いたことのない、うなり声が聞こえたのは真夜中のことだった。外で大人たちが騒いで

いる。戦火がすぐそこまで迫っている、この村に到達すするのもすぐだろう。口々に言いあ

い、慌てている。

起きだして外に出ると、向こうの空が赤く染まっている。うめくような轟きは空に木霊し、段

々と大きさを増しているようだ。逃げよう、誰かが叫んだ。どこに? 怒鳴り声がそれに応

えた。母さんが僕の手を強く握り締めた。

何かが破裂する巨大な音がすぐ近くで聞こえ、幾つもの悲鳴がそれに混ざりこんだ。気が

つくと母さんに手を引かれ僕は懸命に走っていた。

何人もの人とぶつかり、いくつもの悲鳴が聞こえ、それをかき消す爆発音は、僕の空をも

赤く染めた。それは大地を燃やす炎の色だった。なにがおきているのかわからないまま僕

は逃げ惑い、逃げ惑っていることすらわからないまま、走り続けた。世界中を揺さぶるよう

な轟きは絶え間なく空気を満たし、それだけで息が詰まりそうだ。

「母さん!?」

人の波に飲まれ引き裂かれた手は頼りなく、呼ぶ声も振動に消えていく。探しても見つか

らない。母さんはどこ? そして父さんはどこに行ったの? 

逃げ場所のないまま逃げる人はみな、僕に気をとめることもなく、ただただ先へと進んでい

く。その先になにがあるんだろう? 見渡す限り炎に包まれ、すべての音を消し去る爆音

に支配されているのに、なにがあると言うんだろう? 

これが戦争というものなら、父さん、僕はわかりたくない・・・ そう思いながら、僕は森を思

った。あの木なら、きっと僕を慰めてくれる。人の流れに逆らって僕は森を目指した。

森は・・・ 森はやはり静かだった。所々に上がった火の手、それに逆らうこともなく、静か

にそこにいるだけだった。母親に叱られて泣く子リスも、噂話をするカッコウもどこかに消

えた。物知りの風さえも吹いていない。そこにいるのは見知らぬ、生まれたての荒々しい

風だ。僕は僕を慰めてくれるはずのあの大木を探して森の中をさ迷い歩いた。

「・・・!」

出会ったのは見たことのない若い男だった。僕や村の人とはあきらかに違う金色の髪、青

い瞳、その瞳が激しい憎悪に燃えている。

逃げろ! 僕の中で何かが弾けた。わけのわからない恐怖に、足が竦む。もつれる足は、

簡単に若い男に捕らえられ、地面に押さえつけられた。殺される――

「母さん、母さん、母さんっ!」

夢中で叫ぶ声もきっと母さんには届かない、母さん、どうしているの?

泣きじゃくりながら、僕は僕を押さえた男が動かないことに気がついた。見上げると、呆然

と男は僕を見詰めていた。

「mama mama kon-na kodomowo korosoutosita ・・・」

男がなんと言ったのか、僕にはわからなかった。だけど、泣いていることだけはよく判った

んだ。僕とは違う青い瞳から涙が流れるのを不思議な気分で眺めながら僕はまた泣い

た。

男は泣いていた。僕も泣いていた。森も作られた風に揺らされて泣いていた。その周りで

轟きが木霊していた。

                                            (2003/04/03)




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