奇跡

「僕が生まれたのは奇跡だったんだ」

静かに彼が言った。

「僕の母はね、妊娠7ヶ月のときに交通事故にあって、植物状態になったんだ」

窓から差し込む月の光が彼の顔に柔らかな陰影をつけている。

「植物状態になったまま目覚めることなく、母はその胎内で僕を育てた・・・ 8ヶ月が過ぎた

頃、帝王切開で僕は産み落とされた。母は――母はまだ眠ったままなんだよ。きっともう、目覚

めることなく逝ってしまうんだろうな」

その声は穏やかだった。だから余計に彼の心の中にある悲しみを見たような気がして、私はそ

の心に寄り添いたくなった。彼の胸に置いた手に力を込めると、思い出したように彼は苦笑い

をする。

「大丈夫、君に母の面倒を見てくれなんて言わないから。ただ、一度だけでいい、母に会ってく

れないか? 会うと言っても、母にはわからないんだろうけど・・・」

彼の両親は何年も前に離婚して――と言っても、もちろん彼の父親の一方的なもので、でもそ

れを責められる筈もなく、母親は実家に帰され、彼は父親だけに育てられていた。彼がそんな

話を始めるまでは、母親とは音信普通になっているものだと思っていた。離婚していることはず

い分前に聞かされている。でも、そんな状態だとは、その日初めて知ったのだった。

「あなたを生んでくれた人だもの。会ってお礼が言いたいわ」

私は眠り続けているという彼の母親に会うことに一もニもなく合意した。

彼を愛していた。彼も私を愛している。きっとこれが最後の関門だと、私は思った。彼の母親に

会うことで、彼は私を選ぶだろう。きっとこれは儀式なのだ。彼が私にプロポーズする前の・・・

再び火がついた彼の身体を受け止めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。



約束の日は土曜日で、本当は前日の金曜の夜から彼に会うはずだったが、私は体調が悪い

ことを理由にそれを断った。

「風邪かな? 気をつけて。別に明日じゃなくってもいいんだからね。無理なようならまたにしよ

う」

電話で断りを入れた私を彼は気遣ったが、待ち合わせの時間を午後に指定して、私は電話を

切った。午前中、行きたいところがあった。行って確認したかったのだ。

その日は朝からじめじめとした心地よいとはお世辞にもいえない雨が降っていた。

約束通りの時間に迎えに来た彼は私を見て顔色が悪いと言ったが、それを私は雨のせいにし

た。

「こんな天気だから、そう見えるだけよ」

彼は何か言いたそうだったが、なにも言わずに車を出した。彼の母親に会うということを、私が

苦痛に感じていると思ったかもしれない。

母親は近郊の病院に預けられていた。高速を使って1時間強の距離だ。

ところが高速に乗ってしばらくするとびっしり車が詰まり始めた。電光掲示の案内を見ると、事

故渋滞とある。どうやら渋滞は目的地の先まで続いているらしい。

「どうするかな・・・」

独り言のように彼が呟いた。

「ここからだったら下道を行ったほうが案外早いかもしれない」

「だったら降りちゃう?」

「ただね、峠をこえなきゃならないんだよ。これくらいの雨ならなんてことないだろうけど・・・ 大

丈夫?」

私の体調を気にしているのだ。

「大丈夫よ。――新緑がきっときれいね、素敵なドライブになるわ」

私は笑って見せた。

実のところ、不安がなかったわけではない。4〜5日前からちょっとしたことで吐き気を感じるよ

うになっていた。平気なときもある。だけど、だめなときもあるのだ。すぐに私は原因に思い至っ

た。遅れている・・・・

午前中に行った病院の医師は事務的にこう言った。

「2ヶ月に入っていますね。どうされますか?」

私が未婚であることを考慮しての言葉だったのだろう。即座に私は答えた。

「もちろん、産みます」

なぜそう答えたのかわからない。本当だったら彼に相談してから決めるべきだったのかもしれ

ない。だけど私は感じたのだ。

診察の途中、医師は超音波の画像を私に見せた。

「この部分、ここに赤ちゃんがいるんですよ」

そのとき、私にはそこが動いたように見えた。画像のブレだったのかもしれない。だけど感じた

のだ。生まれたいという意思を。

高速を降りると、しばらく地方都市特有の住宅街が続き、やがて民家が減ると同時に、道は木

々に包まれる。

思ったとおり新緑は清々しく、目を楽しませてくれた。可憐な色合いの花もところどころに咲い

て、季節の素晴らしさを謳っている。

彼との他愛のない会話に興じているふりをしながら、私は別のことを考えていた。きっとそれは

彼も同じだろう。ただ、「別のこと」の内容は大きく違う。

彼は母親のことを口にしなかった。これから会いに行く人のことを普通ならば話題にするだろう

に、あえてそれを出さないのは、彼が心の中で、その事を考えている証拠だ。

そして私はと言えば、自分の中に宿った、新しい命のことと、そしてそれを知ったとき、はたして

彼がなんと言うかを考えていた。

彼はきっと私にプロポーズする。母親に会わせるのに今日を選んだのにはわけがあると、私は

勝手に決め付けていた。来週には誕生日を迎える私、彼はその日にポロポーズしようと思って

いるのだ。

しとしとと降っていた雨は小糠雨(こぬかあめ)に変わり、標高が上がるにつれて霧と変わる。

「晴れていたら、いい見晴らしなのになぁ」

残念そうに言う彼に

「それじゃあ、今度は晴れた日につれてきてね」

と私は甘えた。道はクネクネと折れ曲がり、木立の間を縫うように連なっている。時に眼下を見

渡せるように片側が開け、時に両側がコンクリートの壁で塞がれていた。

もしも私の妊娠を知ったなら、彼はすぐにでも結婚しようと言うだろう。・・・私の思いは複雑だっ

た。結婚してから2〜3年後には子供が欲しい。そんな言葉を彼が言っていたことを思い出す。

今すぐには子供はいらない、裏を返せばそういうことだ。受け入れはするが、望んでいるわけ

ではない。それに――

ひょっとしたら、彼がプロポーズしてくれると言うのは私の思い違いかもしれない。妊娠を理由

に彼に結婚を強要することになってしまうのではないか。いや、それはちがう、彼は私を愛して

いる。二つの思いに私は揺れていた。

道が下りに変わったころ、その日初めて彼が母親のことを口にした。

「あの事故も、こんな細かな雨が降る日だったそうだよ」

私は無意識のうちに下腹部に手を置いていた。

(7ヶ月って、お腹の中で動いているのがわかるころかしら?)

20年以上も眠り続ける人はどんな夢を見るのだろう。 夢の中で、我が子の成長を見ているか

もしれない。ふとそんなことを思ったときだった。

突然、目の前に対向車が現れた。急な右カーブだ。大きく脹らんで対抗車線に飛び出してきた

その車に、彼が急ブレーキを踏み、ハンドルを切る。

「!!!!!」

彼が私の名を大声で呼んだ。強い衝撃を感じ、車の方向が狂っていく。見る間に目の前にコン

クリートの壁が迫る。

(助けて、助けて)

私は心の中で叫んでいた。それが母性から来るものなのか、それとも彼の母親のことを考えて

いた感傷からなのかはわからない。

(お願い、この子を助けて・・・ 私は眠り続けてもいいから)

すると、冷たい手を二の腕に感じた。

(おいでなさい)

聞き覚えのない声が頭の中に響いた。手は私を車の外に出そうとしている。

(だめよ、飛び降りたらこの子が)

大丈夫―― その声は私を包んでいた。

(大丈夫、私が守ってあげるから)

抱き上げられる感触と同時に、私は道路にうずくまっていた。すべてが一瞬のことだった。とっ

さに彼の車を見ると、向こう側の壁に私が乗っていた助手席側を激しくぶつけて、そして止まっ

た。あのまま乗っていたら、私は今ごろ潰されていたかもしれない。そんな恐怖を感じながら、

私は思い出していた。ドアは開かなかった。

慌てて飛び出してきた彼に抱きすくめられながら、

「奇跡なの。――奇跡が起きたの」

私はそう呟いていた。不安げに彼が私を見る。

「・・・?」

「私ね、赤ちゃんができたの」

なにから説明しようか迷ったあげく、私はそう言っていた。そして、そのとたん、今起こった「奇

跡」を言うのはやめておこうと思った。きっと事故のショックで混乱したのだと思われるに違いな

い・・・



事故処理が終わり、これから行ったら面会時間ギリギリだから出直そうと言う彼に、どうしても

今日行きたいと言い張った。あんなことがあって疲れているだろうし、何よりお前の体が心配だ

から、と暗におなかの赤ちゃんを気遣う彼の反対を私は押し切った。行って確かめたかったの

だ。

白いシーツに包まれて眠るその人の手は、思ったとおり冷たかった。その手を握り締めなが

ら、彼女の顔をまじまじと見つめる私の頬を暖かな雫が伝って落ちる。

(あぁ・・・私、泣いているんだ)

なぜ自分が泣いたのか、判らない。私の涙は彼女の瞼に落ち、そして目尻へと流れ、彼女の

頬をも濡らした。

彼女もまた泣いている。私はそう思った。私の涙が何のためなのかわからないのと同様、彼女

がなぜ泣いているのかはわからない。

帰りの電車の中で彼が言った。

「僕が生れたのは奇跡だって、いつか言っただろう?」

事故の直後、私が言った言葉を彼は勘違いしていた。だけど、それでいい――

彼はこう続けた。

「考えてみると、『命』自体が奇跡なのかもしれないね」

                                                 (2003/05/19)
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