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―序―

不審な物音に部屋を訪ねたときは遅かった。薄暗い廊下で姿を消した人影はなにを語ってい

ただろう? 唖然と「それ」を眺め、そして思いを巡らせた。守らなくては・・・

私は必死だったのだ。




1.閉ざされた空間

鬱蒼とした森に囲まれた屋敷は車でも使わなくてはどこに行くこともできない。何でこんな山

奥に作ったものか? 主の人嫌い、変わり者は勝手だが、迷惑をこうむるのは周囲の者たち

だ。

自家発電の電力に、清水を汲み取って使う・・・ もちろん人嫌い、電話なぞ引くはずもない。

携帯電話も圏外なのでまるきり人の世から隔離された感がある。門に設けられた監視カメラ

は防犯のものだが、それだけがここもまた俗世の一所と思わせた。

その監視カメラに1台の車が映る。東京の編集者を乗せたセダンだ。ゆっくりと門が開ききる

のを待って、敷地の中に滑り込む。そしてまた、門は閉められる。次にこの門が開かれるま

で、この屋敷に入ることも、出ることも不可能となった。そう、誰であろうと・・・




2.この中の誰かが

主の松岡露俊(ろしゅん)は人情味あふれた作風で人気の小説家だ。そんな作風だから「人

嫌いの変わり者」では体裁が悪い。山奥に引きこもる理由を「大自然を愛するがゆえ」として

いるのはそのためだ。だが実際は、横着で我が儘、自分の家人を召し使いと考えている節が

ある。家人に限らず、もちろん担当の編集者にも同じことが言えた。

だから大槻はここに来るのは気が重かった。またあの、人を蔑んだ態度で「何で貴様などに

原稿を渡さねばならんのだ?」と言われるのは目に見えている。俺に原稿を渡し、そのおか

げで手に入れた稿料でこれだけの暮らしをしているんじゃないか、そう言ってやりたかった。

だが、そうは思うものの、とてもじゃないが実行に移す勇気はない。大槻も生活がかかってい

るのだ。大先生に目をつけられて、会社を首になるわけには行かない。

俺なんか、まだましだ、大槻はそうも思う。仕事のときだけ我慢すればいい。だがあの屋敷に

ともに住み、毎日顔をあわせ、あの毒舌を浴びせられる家族はたまらない。大槻は松岡の妻

や、その連れ子の顔を思い浮かべた。

妻の今日子は松岡のどこがよくって一緒になったのだろう。酔った松岡に聞かされた話で

は、今日子の色仕掛けに負けて妻にして「やった」というが、疑わしい。今日子を見る限り、地

味でおとなしく、紹介されるまではこの屋敷に勤める家政婦かと思っていたほどなのに、色仕

掛けと言うのがそぐわない。無理やり手篭めにしてやったのだ、と聞かされれば納得しただろ

う。

手篭めにする、といえば、今日子の連れ子の雅美によくあの松岡が手を出さないものだ。最

近ますます雅美は色っぽくなってきた。いや、もう既に味見済みかな・・・?

車止めにセダンを収めながら下卑た笑いを大槻は浮かべていた。




3.事件の発端

若い女というものはいい。甘いような酸いような、そんな匂いが鼻をくすぐる。抱き締めればす

っぽりと腕の中におさまりそうな、そんな柔らかな身体を想像するだけで、背筋がゾクゾクとす

る。

そんなことを考えているときにドアをノックする者がいた。

「お茶をお持ちしました」

雅美のその声に、背筋に走るものを感じていた。




4.残された物

屋敷の主婦、今日子が大槻を起こしにいったとき、既に彼は起きようにも起きられない状況に

陥っていた。

部屋は乱れ、もみあったと推測される。テーブルは倒され、割れた茶器と、それを運んだと見

られる盆が床に散乱していた。

凶器が部屋にあった鉄製の花瓶だということはすぐにわかった。大槻は後頭部から血を流し、

血痕が付着した鉄瓶が無造作に投げ捨てられていた。犯人は、犯行を隠すつもりはないらし

い。

監視カメラを見る限り、大槻が来てからこの屋敷の敷地に入った者はいない。犯行が可能な

のは松岡と妻今日子、そして娘の雅美だけである。隠しても無駄と思ったのだろう。

ただ解せないのは、これもまた彼の血にまみれ、無造作に置かれた1冊の本である。どうや

ら殺害される直前に大槻が読んでいた物らしい。それがもみ合ううちテーブルから落ち、そし

て死の間際、大槻はこの本に手を伸ばしたのだ。

本をめくると、あるページに目が止まった。大槻が自らの血で書いたのだろう。

「8 」−−

開いたページのど真ん中に、その数字は大きく書かれていた


  コーヒーブレイク
     さてこの先は、犯人(?)の独白です。
     果たして犯人は誰か、そして血塗られた数字「8」の意味は?
     考えてから先にお進みください。・・・簡単すぎて、考えるまでもないかな?(苦笑)


―終―

松岡はその作風が示すとおり、穏やかで人を思いやる、とても優しい人なのです。ただその反面、

それはそれはテレ屋でございまして、人前では豪胆快活を装っておりました。

雅美が自室に逃げ帰るように戻り、閉じこもったのに気がついた時、すぐになにがあったのか察し

ました。大槻さんが雅美を見る目には以前から注意していたのです。

松岡もそれに気がついていて、あの方をこの屋敷にお泊めするのは快く思っていないようでした。

ですが原稿があがっていない以上、こんな山奥でございましょう? またお出でなさい、とは言え

なかったようでございます。

雅美の様子で大槻さんはどうしているのか気になった私は、あの方にお貸しした部屋に足を向け

ました。廊下の薄闇の中、部屋を出て行く主人の姿を見たのはそのときです。主人は疲れきって、

項垂れているように見えました。

ドアは開け放たれておりましたので、中でなにがあったのかは一目でわかりました。私は何とか隠

し通せないものかと、そればかり考えて一夜を過ごしましたが、主人の考えは違っていたようでご

ざいます。

翌朝、主人は申しました。謝って人を殺してしまった、と。

お茶をお持ちした雅美に大槻さんは邪な欲望をお持ちになったようです。何とかその場を振り切っ

た雅美を追いかけて部屋を出たあの方を、主人が引きとめたと聞いております。先ほども申しまし

たとおり、主人もまた大槻さんがよくないことを雅美にするのではないかと心配しておりましたの

で、いち早く部屋の様子に気がついたのでしょう。主人が自分の部屋に近いところを客間に選んだ

のも目を光らせるためだったのかもしれません。

主人に見咎められてさすがの大槻さんも、渋々部屋に戻り、主人は大槻さんを責めたそうです。

「こんな品行の悪い奴は今後、出入り禁止だ」と。出版社のほうにも連絡をとってそれなりの処分

を考えてもらわねばならないな、という主人に、大槻さんは慌て、そして開き直ったそうでございま

す。「どうせあの娘も妾にしているんだろう」などと口汚く罵られ、ますます主人は怒りを感じたと言っ

ておりました。

主人はこう申しました。こんな下衆な男に原稿を託さねばならないのは嘆かわしい・・・ もちろん、

それが原因で主人があの人を殺したわけではありません。

罵詈雑言を浴びせる大槻さんにあきれ返った主人が、「言いたい事はそれだけか」と、部屋を出よ

うとしたとき、あの方のほうから主人を襲ってきたのだそうです。

鉄瓶で殴りかかってきたのは大槻さんのほうで、主人がしたことといえば、大槻さんから鉄瓶を振

り払うことと、何とかその手から逃れようともみ合ったことだけだと主人は言っておりました。主人に

突き放された大槻さんが、自ら落とした鉄瓶に強く頭を打ちつけたのはお気の毒としかいえませ

ん。

私が知っているのは、主人から聞いているのは以上でございます。

は? 数字の「8」? 何のことでしょうか・・

大槻さんが本になにやら書いたのは知っておりますが、数字の「8」ではなかったと記憶しておりま

す。

そうですか、本に私の指紋がついておりましたか・・・ 事の真相があきらかになっている以上、た

いしたことではないと思って申しませんでしたが、実は私、大槻さんの部屋に入ったとき、本に書か

れた文字を見て唖然といたしました。そのときはなにしろ、主人を庇いたい一心でしたから・・・。ど

うにかしていたんでしょうね、本を閉じればその文字が消えるように思えたのです。そのときにつ

いた指紋でしょう。

本に書かれていた文字ですか? 松岡露俊の「ろ」の一文字でした。

                                                 (2003/04/13)
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