その音
月を眺めていた。

血の色を滲ませた月は不吉な事を想像させる。何かよくないことが起こりそうな、そんな不安を感じさせる。

背後に感じた気配に振り向くと、上の兄者が立っていた。

「月か?」

こちらを見ることなく兄者の唇がそう動く。空を見上げた目が月を見ていることは言うまでもない。

「大巫女の占でも、なぜ月があのような色になったのか判らぬそうじゃ。だが、あの禍々しい色・・・よいこととは思

えない。父者は民人(たみびと)が騒ぎ出すのを畏れ、とりあえず天下安泰の祈祷をさせることを決めた。それによ

り民も少しは落ち着こう。だが、焦点がボケた祈祷だ。どれほどの効果があるものか・・・」

夜はまだ冷える、館に入ろうと兄者が促す。その背中に頼もしいものを感じ、思わず袖を引いた。

「兄者・・・」

「・・・どうした?」

穏やかな目が吾を見る。

(言えはしない)

頼れるはずもない、そう思い直して視線をそらし館のほうを見やれば、下の兄者が上り口に立っている。夜目の遠

目で見ることは叶わぬその涼やかな目に、心を見透かされるような気がして慌てて俯けば、上の兄者が軽く笑っ

た。

夜半を過ぎて傾く月は相変わらず血の色を呈し、心を揺らした。寝付けぬまま夜具から抜け出し、居室の戸を薄く

開けて見上げていると、庭伝いに近づく者がいる。夜回りかと思っていると、姿を現したのは下の兄者だった。

供を3人ほど連れ、手には魔よけの弓を持っている。

「眠れぬのか?」

見咎められ叱られはしないかと、戸を閉めようとすると、思いのほか優しい声が響いてきた。

「眠れぬのも無理はない」

呟くようにそう言うと、月を見上げた。

「その弓であの月を射るのか?」

と問えば、

「ふむ・・・たとえどんな名手でも、弓で月は射れまいぞ?」

と笑う。

先に行けと供に命じ、己は吾の居室の戸に手を掛ける。部屋に入る気かと緊張すると、それに気がつく様子もなく

中をぐるりと見渡した。

「殺風景な部屋だな。女子(おなご)の部屋というものはもっと華やかかと思うていた」

そして部屋に足を踏み入れることなく、縁に腰を降ろすと、また月を見上げた。

「月は物を言わぬ。だからあれこれ想像するしかない。そして今、あのように恐ろしい色をしていれば、よいことは

思い浮かばない。人々はわけもなく騒ぎだし、ありもしないことを口にする」

それだけ言うと立ち上がり、下の兄者は懐から鐸を取り出して差し出した。

「今宵は俺も館の警護にあたる。悪しきものを中に入れるようなことはない。だが念のため持っているがいい。魔よ

けの呪いを施してある」

持ち重りのする鐸を眺めていると、早く戸を閉め休むがいい、と、今度は不機嫌な声で言う。慌てて閉めると、

「あれからもう10年以上も経つのだな」

呟いてから下の兄者は立ち去った。

あれから10年以上の時が過ぎた・・・ 下の兄者の言葉は、吾の父者、母者が死んでからという意味を持つ。幼か

った吾はよく覚えていないが、聞く話によれば、従わぬ吾の父者を一族の長が滅ぼしたのだという。栄える者と滅

ぶ者、世の常の話である。

吾が「兄」と呼ぶ二人は実の兄ではない。一人残された吾が引き取られ、育てられた館の息子たちである。吾が母

の兄がこの館の主だった。

夜具に潜り込み目を閉じれば心落ち着かぬまま、それでもウトウトとした眠りに引き込まれる。混沌とした意識の中

に今宵もあの音が響いてきた。

<キリリ・・・・キリキリ・・・>

壁を爪で掻くようなその音が神経に障る。

<キリリ・・・キリリ・・・>

音はだんだんと大きさを増し、近く迫ってくる。

(兄者――)

恐ろしさに兄者の名を呼んだ。涼しげな瞳が脳裏に浮かぶ。

<キリキリ・・・>

と、その音に、パーーン、と何かが弓で射抜かれる音が重なり、ハッと吾を覚醒させた。

唐紙に、月の光に浮き出された影が映っている。ゆっくりとした動作で、弓に矢を番えている。それが弓を絞るのを

途中で止めると、こちらを窺う仕種を見せた。

「目が覚めてしまったか?」

声は、思ったとおり下の兄者のものだ。

「声を掛けても聞こえなかったようだ。驚かせてすまぬ ――館の四方に札を立て、それを射抜く呪いをしている」

それから3度矢を射ると兄者の姿は消えた。

明くる日、館の周りは昼だと言うのに篝火(かがりび)が焚かれ、物々しい雰囲気に包まれていた。早朝、何人か

が館に押しかけ、なにやら言い争っていたことは吾も知るところ、その残り香が館の中に漂っているのだ。

館から出ることを禁じられた吾は、庭に咲く花を愛でながら、あの音を思い出していた。

キリキリと何かを掻く音は吾になにを訴えているのであろう。吾にしか聞こえぬことは承知している。いつから聞こ

えるのかは忘れてしまった。だが、物心ついたときには聞こえ、そして誰に尋ねても「そんな音はしない」としか答え

てくれない。そして、あの月の色・・・。

月があの色をし始めてから、あの音も急に強く、頻繁に聞こえるようになっている。

<キリリ・・・キリリ・・・>

それは断続的に、だが重くいつまでも心に響く。

少しずつ日は傾き、また月が昇る時刻がやってくる。今宵の月も血の色をしているのだろうか?

吾は館を眺め、兄者のことを思った。二人の兄者は、その父親と頭を付き合わせ、今宵のことを相談しているはず

である。

早朝、館に押しかけた人々は口々にこう言った。「10余年が過ぎ、今になって祟っているのだ」と。それを上の兄

者が否定した。

「あれは遠国で起きた山火事を月が映しているのだ。山火事が因とあれば巫女様の占にも出ぬはずよの」

「だが、今宵でもう七日、そんなに長く燃える山など信じられはせぬ」

「死んだ者に何ができようぞ?」

「魂は残り、いまだ恨みを抱いている。そして此度のことでますます恨みを募らせたのであろうよ」

キリキリと音がした。吾にだけ聞こえるあの音、あれは恨みの音なのか・・・?

庭に上の兄者が降り、「昨夜、うなされていたそうだな」と、声をかけてきた。

「どうしてそれを?」

「聞いたのだ」

下の兄者の名を告げた。

「人々は勝手なことを口にする。月のことにしてもそうだ。未明に、遠国で山が燃えていると確かな報せを受け取っ

た。それを言っても聞く耳を持たぬ」

やれやれと肩をすくめる。

「だがな・・・」

吾の名を呼び向き直ると、穏やかな、それでいて力強い視線で見つめた。

「確かに俺たちの父親はお前の父親を討った。だがそれは仕方のない理由があったからだ。ましてそれからかなりの

時が過ぎている。祟るなら、とうに祟ってよいはずぞ。それを今さら祟るなど、ありえようもない」

「でも・・・」

吾は小耳にはさんだ噂を口にしていた。

「仇同士を娶わせることに月が――」

「なぜ月がそれを怒る?」

いつになく兄者が口調を荒げた。

「人と人が手を取り合うことは繁栄をもたらす善きことぞ。まして婚儀とあればその際たるもの。婚儀が決まった日

と、月が色を変えたのが同時なのは偶然というものだ。――お前と俺たちはもともと仇などではない。血のつながっ

た同じ一族、いがみ合うものではない。それとも、あいつが気に入らぬか?」

慌てて頭を振る吾に、そうであろうと兄者は笑った。

その夜、やはり月は赤く燃えていた。それを眺めるともなく眺めていると、ザワザワと館の表に人の集まる気配があ

る。何かを叫び、訴える中に吾の名が混じる。

「父親に憑りついていた物の怪が今になって妖力を現したのだ」

―― 物の怪・・・? 耳を疑い、もっとよく聞こうと神経を集中させると、この館の主の声が一喝するのが聞こえた。

「民の中には未だにあの娘の父親を慕う者がいる。娘を担ぎだし、吾らを倒さんと目論む者もいる。それを封じるた

めのこの婚儀、取りやめはせぬ」

目の前が暗転し、足元が儚くなるのを感じていた。
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