最後のメール<前>
<序>

初恋は甘く切なく今もなお、僕の心を締め付ける。

灰暗い空が含羞むように頬を染めて朝を産み落とすように、心に差し込んだ僅かな兆しはいつの間にか恋と言

う名の姿を見せて、その存在を露にした。そしてその時の思いは、微かで曖昧で、それでいてくっきりと僕の記

憶に刻み込まれている。

出会ったのは冬だった。気がつけば春に包まれ、淡い陶酔と焦燥に揺れながら、夢のような一瞬(とき)を過ご

した。夏を求めて梅雨空の下で交わした約束は、果たされることなく宙に消えてしまったけれど、きっと生涯忘

れることなどないだろう。

駅で僕を追い越す君、そんな出会いは別れもまた、君が僕を追い越していってしまうことを暗示していたのだろ

うか? 

――違う。君は二人で歩こうとしていた。それなのに、道に迷った僕が立ち止まり、繋いだ手を離したのだ。そし

て僕たちは互いを見失い、別の道を選んでしまった。

優しい痛みを伴った後悔は今もこの胸に埋もれている。



<1>

「シュウ、シュウ――」

明るい声に振り向くと、姉のユリエが笑みを浮かべて駆け寄ってきた。行き交う人の多い街中である。シュウは

慌てて素知らぬ振りを装うと、早足に立ち去ろうとした。

「シュウったら・・・」

笑いながらユリエが肩を並べて歩く。

「お姉ちゃんと歩くのが恥かしいの?」

図星を指されて何も言えない。腕を組もうとするのを振り払うのがやっとだ。

「ツレないなぁ・・・彼女ができると変わるわね」

そんなシュウにユリエは、唇を尖らせて少し拗ねた顔をしたが、すぐにコロコロと笑う。そして悪戯そうに瞳を輝

かせるとシュウの顔を覗き込んだ。

「もうキッスくらいしたの?」

カッとシュウの顔が赤く染まる。人の耳が気になって見渡せば、ちょうど擦れ違った中年女性がニコニコと自分

を見ている。さらに顔が熱くなるのを感じ、逃げ出したい心境にシュウの足が速まる。

「ちょっと、待ってってば」

笑い転げる姉に少し腹が立つ。何もこんなところで揶揄わなくったっていいじゃないか・・・

(だけど・・・ 少しくらい教えたげるか)

思い直して立ち止まると、シュウはカバンからノートを取り出し、走り書きした。ちょっとだけ自慢したい気持ちも

あった。

「へぇ・・・」

走り書きを読んだユリエは一瞬、真顔に戻ってシュウを見た。そしてすぐにまたキラキラと瞳を輝かせる。

「夏休みにはビーチでデートか・・・ やるね、この!」

まあね・・・ シュウの顔がそう言っている。シュウがそんな満ち足りた表情を見せるようになったのはここ最近

のことだ。それまでは笑っていてもどこか寂しげだった・・・ 泣きたいような気持ちになって、ユリエは慌ててシ

ュウの耳元に唇を寄せた。

「ひょっとして泊りがけ・・・?」

(違うっ!)

ノートに書き込もうと焦るシュウから、今度はユリエが逃げるように駆け出した。

「急がなくっちゃ、バイト、遅刻しちゃう―― たまにはお店に遊びにおいで。ご馳走はしないけど」

手を振ると、さっさと後姿を見せてユリエは人込みに消えていく。

(ハンバーガーぐらいたまには奢れよ・・・)

呆れて見送っていると、ふと笑いが込みあげてきて、今の自分は幸せなんだ、とシュウは思った。



シュウがナツミと知り合ったのは寒風吹きすさぶ駅のホームだった。シュウにぶつかりそうになって電車に乗り

遅れたナツミ、その詫びにシュウが差し入れた缶コーヒー、数日後、ナツミからメールアドレスを受け取った。

一日に何度も交換されるメール、けれどナツミが「電話で話したい」と言ったとき、シュウはナツミから逃げ出し

た。話せないことを告げていなかった。知ればナツミが遠ざかると思った。だから自分から逃げ出した。そんな

情けないシュウをナツミは追ってきた。

嫌われることを覚悟で告白したシュウにナツミは笑った。そして泣いた。それでもシュウが好き、ナツミはそう言

って泣いた。そうして二人の恋は始まったのだ。

(そう言えばナツミ、ユリエに似てるや)

梅雨の走りの今にも泣き出しそうな空の下、それでも休日ともなると、動物園は親子連れやカップルで賑わって

いる。

ガラス越しにゴリラと睨めっこするナツミ、怒ったゴリラが、ドンッとガラスを叩く。驚いてナツミがシュウに飛びつ

く。一瞬顔を見合わせて二人で笑い転げた。

「なによ、ニヤニヤしちゃって」

ソフトクリームを舐めながらナツミが頬を膨らませた。さあね、と素知らぬ顔で冷たく甘いクリームをシュウも舐め

続ける。もの言いたげなナツミの瞳はそれでもやっぱり笑っている。その表情がユリエに似ている、と改めてシ

ュウは思った。

(ひょっとしてシスコン?)

苦笑いしながらサクサクとコーンを齧っていると、不意にナツミの携帯が流行の曲を奏で始めた。

「あ、ごめんね」

水をさされたような覚めた顔でナツミが携帯を取り出す。それでも電話で話す声は空の雲を吹き飛ばしてしまい

そうに明るい。

電話の相手は学友らしい。どうやらシュウとの仲を冷やかされているようだ。「どこにいるかは教えないもん」、ち

ょっと拗ねるような口調、だけど嬉しそうにシュウを見る。そんなナツミをシュウも見る。二人の視線が重なって、

目に見えない何か静かに流れて交わっていく。

「あ、あ、だからね、今は忙しいの」

電話の相手から呼びかけられたのだろう。慌てナツミが答えている。一瞬シュウと見詰め合っていたのを、電話

の相手に見られてしまったようなナツミのうろたえぶりに笑いながら、視線を足元に投げると、1羽の鳩と目が

合った。

クリームを食べ終わって残っていたコーンを砕いて撒いてやると、ほかの鳩も寄って来て啄ばみ始める。

(幸せのお裾分け?)

自分の発想が嬉しくなって、知らずのうちにシュウの顔に新しい笑みがこぼれる。ナツミといるときのシュウの心

はいつでも穏やかさに満たされていた。その穏やかさは笑顔となって表にあらわれる。それがシュウには心地

よかった。

鳩を眺めているとその先に、寄り添って歩くカップルが見えた。仲睦まじげに肩を寄せ、何か囁き交わしている。

そう思って見てみると、殆どのカップルが人目を気にするふうもなく、『二人の世界』に浸っている。

(ナツミはそんなムードじゃないよ・・・、な?)

苦笑いしながら、そう言えばナツミはどうしたと振り返る。もう携帯は切ったのだろう、話し声は聞こえない。

「・・・!」

ナツミの見開いた、視線だけをシュウに向けた目とシュウの目があう。瞬時の沈黙、そして噴出すシュウ・・・

ナツミは溶け出したソフトクリームと格闘中、おりしもシュウが目にしたのは滴り落ちる白い雫に、コーンの尻尾

に食らいついたナツミだった――



「お願いします」

近くにいたカップルにナツミが声をかけ、カメラを手渡す。ちょっと寒そうなペンギンをバックに仲よく肩を並べて

写真に収まれば、

「ありがとうございました」

明るい声でナツミがカメラを受け取り、シュウはカップルに軽く会釈した。シャッターを切った男が会釈を返す。連

れの女がその男により添いざまに呟いた。

(ありがとう、くらい言えばいいのにね・・・)

男が女の腕を引っ張るように離れていく。ナツミは、と見ると、聞こえなかったのだろう、うっすらと口元に笑みを

浮かべて、自分を見やったシュウを見詰め返した――



***

降り出した雨は二人の仲を接近させたね。それはもちろん『距離』だけなのだけど、それでも僕にとっては地面

から足が3センチくらいは浮いている心地だった。

雨宿りに飛び込んだ庇(ひさし)は大盛況で、誰もが皆、隣り合わせた誰かと身体のどこかが触れ合っていた。

そんな中で君は、それを気にする様子もなく、檻に入れられたピューマを見て喜んでいた。

「猫よ、猫。大きな猫」

はしゃぐ君に、僕は呆れ顔を見せたけれど、本当はそんな君が愛しくて、いや増す恋心に手を焼いていたんだ。

君が僕を見、そして檻の中を見るたびに揺れるポニーテール、微かに届く髪の匂い・・・ 見え隠れする君のうな

じから慌てて視線をはずしながら、それでもさり気無い振りを装って、君の肩に腕をまわした僕に、君は気が付

いていただろうか? 

ひょっとしたら君が嫌がるんじゃないか、恐る恐る伸ばした僕の手、だけど肩を抱かれたことさえ君には判らな

かったみたいだね。はたから見れば僕の仕種はどんなにぎこちなかったか・・・ だけどあの頃の僕にはあれが

精一杯、心臓の音が君に聞こえるんじゃないかって、さらにドキドキしたことを覚えているよ。

通り雨はすぐに止んで、それを確認するために僕は君から離れたけれど、実を言えばそのとき少しホッとしたん

だ。味わったことのない緊張から解放されたからなんだけど、だけどね、少しガッカリもした。

――君は気がついていただろうか?
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