最後のメール<後>
シュウの最後のメールから5年の歳月が過ぎ、就職した私は生まれ育った街を離れた。本当は大学も遠い場所を

望んだけれど、両親の承諾がとれず断念するしかなかった。

シュウとはあれ以来音信不通になっている。音信不通と言っても、私から連絡を入れることもせず、もちろんシュウ

から連絡がくることもなく、そして駅で偶然の遭遇もなかった、それだけのことである。

あの<もう、会いたくない>と言うメールのあと、友達のサッチはそれきりシュウに連絡しようとしない私に呆れ、連

絡してこないシュウに怒りを表した。シュウが話せないことを彼女にさえ言っていなかった私は、その事を話さない

わけには行かなかった。

しばらくサッチは私の顔をマジマジと見詰めていたが、やがてこう言った。

「つまりはナツミ、ナツミもやっぱりシュウ君が話せないことにこだわってたってことだね・・・」

「そんなこと――」

「だって、今まで一言も私にいわなかったじゃん・・・ ナツミも気にしてたって証拠ね」

そんなことない。心の中で否定しながら、そうかも知れない、とも思った。彼に同情し、献身する事で優越感を感じて

いなかったと言い切れない自分がいる。そんな私をシュウは敏感に感じ取っていた。そして私もちゃんとどこかでそ

れを認識していたのだ。だから、屈辱だ、と言う彼の言葉に私は返す言葉をなくした。違うだろうか?

「それにしても・・・ 彼はどうして話せなくなったのかしらねぇ」

それきりサッチがシュウのことを話題にすることはなかった。

シュウが話せなくなったのは小学生のときだと聞いている。それまではごく普通に話していたらしい。どうしてなのか

は聞いていなかったが、私はひょんなことからその理由を知ることになる。

大学に入ってすぐのころ、彼と同じ高校だった同級生と話す機会があったとき、それとなく話題にしたら、彼はY市の

大学に進学したと教えてくれた。Y市へは片道6時間はかかる。シュウは家を出たのだろう。

その同級生は「ナツミも密かに彼に憧れていたくち?」と笑った。話によると、高校時代、シュウは結構女の子に人

気があったらしい。整った顔立ちと年の割には落ち着いた雰囲気がその要因だろう。だけどね、とは同級生の言葉

である。

「だけどね、彼、口がきけないのよ・・・」

憐れむような、だけどその奥底にほんの少しばかりの蔑みを感じたのは私の僻みだろうか?

「うん・・・知ってる・・・」

「へぇ・・・・」

じゃあ、と彼女は言葉を続けた。そこからの彼女の話には私の知らない話もあって、私をいくぶん驚かせた。

シュウの一家を襲った悲劇、そしてシュウが言葉をなくしてしまった理由・・・ 両親の離婚は私も知ってはいたけれ

ど、原因を聞く勇気などなかった。シュウは父親のもとに、そして母親のところにはお姉さんがいる、家族については

それしかシュウは言わなかった。お姉さんとは行き来があるとシュウが言ったとき、「お母さんとは?」と尋ねたら答

えがなかった。だからそれきりシュウから言わない限り家族のことを話題にするのはやめていたのだ。

その同級生と話したのを最後に、誰かとシュウの話をしたことはない。だけど・・・

私の心の中に、今もシュウは息づいている。



長い梅雨だった。勤め始めたばかりの私の心のように、空はいつもどんよりと曇り、毎日傘を用意していなければな

らなかった。

私が就職した会社は工業薬品を卸売りしている中堅業者だった。私の仕事は営業の内勤事務で、事務所で客から

の注文を請け、その手配をするというものだった。取引先は工場が多い。慌しい現場からの急ぎの注文が多く、毎

日のようにクレームもきた。

クレームと言っても大抵は、先方の勘違いをこちらのせいにされるものが多く、それでもこの不景気でますます『お

客様は神様』となり、絶対の存在だった。まして、言った言わない、を争っても水掛け論である。

社内で慰め合うのがせめてもの救いだったが、学生のころのように時間が自由になるわけでなく、ストレスは溜ま

る一方、私は心身ともに疲れ切っていった。

そんな私の唯一の楽しみは学生時代に始めたインターネットだった。自分の好きにできる僅かな時間、私は四角い

箱の前に座り、マウスを操り、四角いキーを叩いた。

そこに繰り広げられる世界は私を慰め、時には勇気を分け与えてくれもした。ネットサーフィンだけでは飽き足らなく

なった私はチャットも始め、何人かの友人も得た。匿名で交わされる会話は、何のしがらみもない代わり、気軽だっ

た。

そんなある日、私はそのホームページを見つけたのだった。

――最後のメール――

オリジナルの文芸を扱うそのホームページに掲載された1篇は、『最後のメール』と題されて、私とシュウのことが書

かれていた。






***

メール、ありがとう。

・・・まさかナツミに見つかってしまうとは思っていなかったので驚いています。

学生のころから翻訳の仕事をしていて、自分でも何か書いてみたくなって始めたホームページですが、友人知人に

は一切内緒にしていることもあって、好き放題をしています。そんな気安さから書いた1つが『最後のメール』です

が、それをまさかナツミが読むなんて・・・

あの小説に嘘を書いたつもりはありません。ナツミに読まれて困るようなことを書いたつもりもありません。ただ、た

だ、恥じるばかりです。

自分から逃げ出したくせに、『今も後悔している』なんて、なんと未練がましい男だろうと思われたのではないです

か? 知っている人が読むはずはないという前提で書いた物です。もちろんナツミには何の関係もないものと、どう

ぞ、お気になさらないように・・・




***

返信ありがとうございます。

ひょっとしたらまったくの別人、よくてシュウの知り合い、そんな可能性もあるのに、『シュウでしょう?』と書いた無礼

な私のメール、返事がこなくて当たり前と思っていました。

そして今、やはりシュウだったと知った私は、何を言えばいいのかわからず、ただ溢れてくる涙に梃子摺(てこず)っ

ています。

聞きたいことが山ほどあり、話したいことも山ほどあり、だけどあの時何も言えなかった私は、今さらそれを聞く権利

も話す権利もないように思えます。

未練がましいのはシュウではなく、私のほうです。シュウが言われるように『ナツミには関係のないこと』というのが

正解なのでしょう。




***

僕が『ナツミには関係がない』と言ったのは、ナツミを責めているのではなく、ナツミに責任はないという意味です。

僕のことをナツミが気にかける必要はないのだと言う意味です。言葉足らずがお気に触ったのならお許しください。

それにあの時、ナツミになにを言うチャンスも与えなかったのは僕です。はっきりとした理由も告げず、もう会いたく

ないと一方的に言う僕を責めることもせず許してくれたナツミに、何の責任もなく、権利がなくなるなんてこともありま

せん。

反対に、どんな言葉も甘んじて受け止める義務が僕にこそあるのです。




***

権利? 義務? 責任? シュウ、私たちは遠くなってしまったのね。

ううん、責めるつもりなんてないんです。だけど、今のシュウからのメール、「許してくれた」とあったけど、私はシュウ

を許したのかどうか・・・ きっと私もシュウから逃げたんだと、私もシュウと同じなんだと、そう思います。

あの頃の私はまだ、世の中に理不尽がまかり通ることを知らず、真っ直ぐでありさえすれば正しいと信じていまし

た。

就職して、そうではないと思い知らされる毎日を過ごしています。まだたった数ヶ月、だけどその数ヶ月でどれだけ

の理不尽を私は目にしてきたことでしょう。そしてまだ、たった数ヶ月、その数ヶ月ではほんの少しのことしか私は知

ることができていないでしょう。

だけど綺麗事だけが世の中を動かすのではなく、また、綺麗事だけが人の心を動かすのではないと思うようになり

ました。

私はあの時、醜い自分をさらけ出すのがイヤで、綺麗事を通すことで自分を守ったつもりで、結果大切なものを失い

ました。自分を綺麗に見せることなど考えずにいたらあるいはなくすこともなかったかもしれません。

シュウ、私は許したのではないのです。自分が傷つきたくなくて逃げ出したのです。




***

――5年の歳月は人を変え、そして遠くしもしますね。

今、どんな日常をナツミが送っているのか、僕には知る術もないけれど、理不尽がまかり通るなんてナツミに言わせ

るってことは、辛い日々を過ごしているのでしょうか? とは言え、僕にはなにもしてあげることもできないわけで、

歯がゆいばかりです。

理不尽、については思うのだけど、『すべて自分の思い通りになる』という考えと『すべて思い通りになるはずはな

い』という考え、この二つの相反する考えが人間の中に同居しているから起こるんじゃないだろうか。

思い通りになると考え、そのとおりにならないと理不尽と思い、思い通りになるはずがないと考え、するべき努力を

放棄した結果をまた理不尽と感じる・・・ 結局、人間は自分勝手にできているということになりますね。

それでも人間は自分以外の人間とも関わりあっていなくては生きていけないし、そして誰かに自分の我侭を受け入

れてもらえなければ、やはり生きていけない。文字通り、人間とは人の間で生きるものなのでしょう。

それはともかく、僕がこんなことを言う立場にはないけれど、ナツミには真っ直ぐでいて欲しい。自分の心のとおりに

生きて欲しい。

――本当に僕が言うようなことじゃないけれど・・・




***

シュウ―― あの時私は真っ直ぐには生きられなかった。シュウに言いたくて、言えないことがあった。それを言え

ばシュウが困ると思った。シュウを責めることになると思った。嫌われると思った、自分を惨めにしたくなかった――

そして私は後悔しています。自分が惨めになることを、傷つくことをおそれていては決して人の心をつかむことはで

きないのだと、今、シュウとメールをしている間に気がつきました。時には無様な自分をさらけ出して、初めて手に入

れられるものもあるのだと。

シュウが現在の私を知らないのと同様、私も今のシュウがどんな生活をしているのか知りません。だから私の気持

ちがシュウの迷惑になることもあるかもしれないと知りつつ、私は言わずにはいられないのです。

シュウ、私はシュウに会いたい。シュウが私に会いたくなくても・・・ あの頃のまま、私の気持ちは終わっていない。

恋は終わってしまっても、心まで消せなかったの。

誰かに我侭を受け入れてもらえなければ生きていけないものならば、私はシュウに私の我侭を受け止めてもらいた

い。

シュウ、私もあの約束、忘れていないよ。




      海に行こうよ――  約束はいまでも心に甘く響いて・・・
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