< 序 >

思い起こせる限り一番遠い記憶は、黄昏に浮かぶシルエットである。それはいつもとかわ

りない日常の出来事だった。

長い髪を櫛梳きながらその人が口ずさむのがどんな歌だったかは覚えていない。柔らかく

甘い声が切なげな旋律を漂わせる部屋は陽が落ちるに逆らうことなく暗く沈んでいく。そ

の中で、空腹と膝を抱えて蹲る僕はなす術もなく、置きざりにされた人形のように表情の

乏しい目でそれを眺めていたのだろう。

部屋には何もなかったように思う。小さなテーブルと粗末なベッド、そして可愛らしい鏡台、

それだけが家財のすべてだったのではないか。小さなテーブルには時おり何かしらの食物

が置かれていたが、誰が用意した物なのかは記憶にない。そのときもパンがあった。だが

それは青く変色し、食べればあとでどんな目にあうか、経験から知っていた僕は手を出さな

かった。

いつか座っていることすらできないほど体力は磨り減り、僕は身体を床に投げ出していた。

建物から伝わる振動が人の足音だと認識することもできず、乱暴に開けられた扉も自分と

は無縁の物だった。見覚えのある顔に恐怖を感じない代わり、親しみも感じなかった。ただ

の雑音と景色に過ぎなかったのだ。

見覚えのある顔―― それは誰だったのだろう。男の後で年配の女が顔をしかめ、部屋の

異臭にハンカチを口元に当てた姿が一枚の絵のように脳裏に浮かぶ。コマ送りの画面のそ

の次は、僕に差し伸べられた手が「一緒に行こう」と抱き上げようとしている。そのとき、途

轍もない不安を感じた僕は生まれて初めて言葉を発した。

ママ、ママ、ママ――

救いを求める幼い声、それでも甘い歌声は途切れることなく続いていた。
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