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スカルの広場から少し離れた裏路地に、賑わいを見せるパブがあった。陽気な笑い声に歌声、そして
安い酒・・・ 雑多な食物の匂いがふと風に消されたとき、汗のような饐(すえ)えた匂いが漂う、そんな
店だった。
端にカウンターが設えられ、こんな店にしてはテーブルが余裕を持って置かれている。店内を見おろせ
るように作られた2階に小部屋が並んでいるのは、宿泊客をとるためだ。あるいは店で接客をする女た
ちが「個人的な」客を持て成すためのものである。
自在戸を押し開けて一人の男が入ってきた。店内の喧(やかま)しさを気にかける様子もなく、ゆったり
とした足取りでカウンターに向かうと、カウンターの奥から男に気付いた店の主人が会釈を寄越した。
「ゼレス」
いくらかの硬貨と引きかえにグラスを受け取ると、やはりゆったりとした仕種で口元に運ぶ。己の髪と
同じ色をした辛口の強い酒を楽しみながら、どこまでも深い青い瞳はどこか遠くを見詰めているようで
ある。
さっと冷たい風がひと吹き通り過ぎた。自在戸をあけて次の客が入ってきたのだ。黒い巻き毛の若い
男だ。酒場女の明るい声がなにやら男に話し掛けた。ドッと笑い声が起きたのは、男が下卑た冗談を
返したからだろう。さり気なく女の誘いを交わし、やはり何気なくカウンターの男の隣に立った。
「なんの酒だい?」
若い男が話し掛けた。チラリと若い男を見たが、すぐに視線を戻し返事はない。見かねた店主が代わり
に答える。
「ゼレス・・・白葡萄の酒だ。――強いぞ、小僧っ子はやめておいたほうがいい」
「それを貰う」
すぐさま若い男が返した。呆れた顔を見せながら、それでも店主がグラスを差し出す。
「2リールだ」
一瞥しただけで自分を無視し続ける男に視線を向けたまま、言われた硬貨を懐から出し、受け取った
グラスをやはり男を見ながらグイっと一気に煽った。
「・・・・・ごほっ!」
咽て咳き込む若い男を、近くのテーブルで様子を窺っていた男たちがクスクスと笑う。咳と羞恥で真っ
赤になった男の背を奥から出てきた店主がさすってやっていると、空になったグラスを置いた先着の客
がやはりゆっくりとした足取りで2階へと続く階段に向かった。
「旦那、今夜もいいんですかい?」
店主の問いにも僅かに視線を向けただけで、男は2階へと消えていった。
「なんなんだ、あの男は?」
咳の発作がやっと治まった若い男が叫ぶように言った。
「詩人だろぉ・・・」
誰かが半ば呂律の回らない声で答えた。そんなことは判ってら、プンと顔を背けると、若い男は店主に
向かう。
「それより親爺、今夜もいいって、なんのことだ?」
それには答えず、店主はニヤリとしただけだ。
「ゼファー、お前も大好きなもんだよ:」
すぐ後ろのテーブルにいた男がそう言って笑った。
「俺が好きなもの?」
「そうさ、これだよ、これ」
そう言いながら、横抱きに抱いた女の大きく開いた胸元にごつい手を忍び込ませる。どうやら、女のい
い値で交渉は成立しているのだろう。女に嫌がる素振りはない。
呆れ返っていると、先ほど店に入ってきたとき、ゼファーに話し掛けた女が苦々しげに言った。
「あの男、ここに来てから一度も買わずじまいさ」
俺が買ってやるぞ、女のそばにいた男が尻に手を伸ばし、女に平手を食らっている。
「それどころか、誰が話し掛けても、うん、とも言わん」
奥に戻った店主が呟いた。ゼファーが苦笑しながら店主をからかう。
「それじゃあ、商売上がったりだな。・・・もっともこんな売春宿の安っぽい女じゃ、相手不足だろうよ」
むっとした顔で何か言い返そうとする店主に、急に声をひそめゼファーが続けた。
「あの男、いつからここに?」
じろりとゼファーを見たが、やはり声をひそめて店主が答えた。
「お前がこの街に来てから2日目に来た」
「なに者かな?」
「さあなぁ・・・落ちぶれた王侯貴族、だがそれでは納得いかん。こんな商売をしているからな、人を見る
目には自信がある。だがあの男だけは判らん。まるで・・・まるで神か悪魔か・・・」
「大袈裟な・・・」
あからさまな嘲笑に店主は鼻白んだようだ。面白くなさそうな顔でグラスを磨き始めた。
「なぁ、親爺」
ゼファーのとび色の瞳が煌めいた。
「あの男の隣の部屋、あいているか?」
「・・・・」
手を止めて店主がゼファーを睨みつけた。
「人を見る目はあると言ったはずだ。お前の商売に気がついていないと思っているのか? ――お断り
だ、うちで騒ぎを起こすな」
一瞬ゼファーの顔から笑みが消えた。が、すぐさまもとの陽気な表情に戻る。
「ここで商売? そんなチンケな商いはしないさ」
しばらくゼファーを見詰めていたが、店主は鍵を1つ、黙ってカウンターに置いた――
もとより安普請の建家である。店の騒々しさは2階の部屋にももちろん届く。
それでもとりあえず隔離された空間には違いない。身支度を解き、部屋着に変えれば人心地がついて
くる。椅子に腰掛け、商売道具の竪琴の手入れをしていると、ドアを叩く音がした。
「おぉい、いるんだろ? 開けてくれよ、一緒に飲もう」
先ほどの若い男の声だ。男はしばらくドアを見詰めたが、またもとの作業に戻った。ゼファーの相手をす
る気はないらしい。
「おぉい、寝ちゃったのかよぉ?」
ゼファーとてすぐさまドアが開くとは思っていない。
「シャンパーニュは嫌いかい? ちょっとでいいんだ、話を聞いてくれよ・・・」
さて、なんと言ってここを開けさせたものか、扉に寄り掛かりながらゼファーが思案をめぐらせていると、
その扉が急に中へと開き、バランスを失ったゼファーは部屋の中へと転がり込んだ。
「んんん・・・・!」
部屋の中では椅子に腰掛けたまま男が例の静かな眼差しでこちらを見ている。そして、
「ずい分と行儀のいい男だな」
と、やはり静かな声で言う。
どうやら男が開けたわけではないらしい。自分の重みで鍵が壊れたと悟ると、ゼファーは「やっぱりボロ
宿だ」と呟いた。
「すまない・・・親爺に言ってすぐ直させるよ」
「話はなんだ?」
すっぱりと切り出され、話の中身など考えていなかったぜファーが焦る。
「いや・・・ どこから来たんだい?」
「・・・東からだ」
「東ねぇ・・・」
まったく取り付く島がない。
金の髪も青い瞳も確かに美しい。だがそれだけだ。まるで彫像の美しさなのだ。ここの親爺が「神か悪
魔か」と言ったのがあながち間違いでなさそうに思えてくる。
「夕刻には助けられた。礼を言う」
「え?」
急に男が自分から口を開き、ぼんやり見とれていたゼファーを驚かせた。
「夕刻?」
男はすでに視線を竪琴に戻し、柔らかな布でその胴を磨いている。
「ゴメスの懐中の物を掏り取った男はお前だろう? ゴメスには気の毒だが、お陰でこちらは助かった」
「・・・・なぜ、この街を去らないんだ? ここから出て行けばゴメスに付きまとわれることもなくなるぞ」
「まだここに用がある。しなければならないことがあると、竪琴が言っている」
「・・・・その竪琴が話をするのか?」
例によって男はチラリとゼファーを見て、苦笑した。
「まさか。話しをする竪琴など、聞いたこともない」
「え、いや、だって・・・」
「感じるのだ。ただそれだけだ」
変わった男だ。変わっているのは初めからわかっているが、それにしても変わっている。だが・・・
ゼファーは改めて男を見た。大きく表情を変えることのない面、その中になにやら秘密めいたものを感
じてならない。それが「魅力」と言うものなのだと、若いゼファーはまだ知らない。人が人に惹かれるの
は目に見えるものだけではない。目に見えない「何か」に惹かれるときのほうが、その力は大きい。
「俺はゼフィール、みんなゼファーと呼ぶ。お前は?」
待っても返事は来そうにない。邪魔をした、と諦めて部屋を去ろうとするぜファーの足を男の言葉が止
めた。
「そう言えば・・・」
半身を扉の外に出し、ゼファーが振り返る。男がゆっくりと視線を寄越し、やはりゆっくりと言った。
「金持ちばかりを狙う盗賊がいるそうだ。そしてまた、貧しいものに名を告げずに施す人物もいるそう
だ。この二人、決まって同じ街に現れる。――誰だか知っているか?」
ゼファーのとび色の瞳と男の青い瞳がぶつかり、一瞬煌めいた。
ややあって、
「さあ・・・俺が知るはずもない」
と答えると、ゼファーは静かに扉を閉めた。
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