<3>

屋敷の中に、シクシクと泣き暮らす女がいる。そう思うだけで自分の屋敷に帰ると言うのに、ゴメスの足

は重くなる。ゴメスを見るたび、青白い顔をして己の不運を嘆く。言葉にすることはないにしろ、自分を

避ける眼差しが「なんてわたくしは不幸なのでしょう」と訴えているような気がしてならない。当初はた

だの不安であったものが、今では揺るぎない真実としてゴメスの心の中に居座っている。

それでも屋敷に帰り着けば、一目顔を見ようと女の部屋を訪ねてしまう。もしかしたら笑顔を見せてくれ

るかもしれないという切ない願いが、今もゴメスの奥深くに眠っているのだ。しかし諦めから、絶対にそ

んなことはないと自分に思い込ませ報われぬ辛さから逃避していることにゴメスは気付いていない。

女の部屋に近付くにつれ、漂う芳香が強くなっていく。女のために、ゴメスが金に飽かして取り寄せた

色とりどりの東西の花、その香りが際立ってくるのだ。重い扉を押し開けると、贅沢な調度品で埋め尽く

された部屋で、侍女に髪を梳かせている小柄な女が目に入った。夢を見ているような儚い眼差しは少

女のころから変わっていない。ゴメスは遠い思い出を心に浮かべた。

まだあどけなさが残る少女がてのひらに乗せたパンくずをついばみに来る小鳥たち、まだ若者のゴメ

ス、風に舞う少女の髪、それを見守るゴメス、やがて陽が落ちる時刻となり、小鳥たちが己の巣へと帰

っていく。寂しげに見送る少女、「帰りましょう」と促すゴメス、大人になりかけの少女が教えられたとお

りに差し出す白い手、感じたことのない緊張に包まれながらそれを受け取るゴメス、二つの影が一つに

なりそうな近さで、王城の広い庭をゆっくりと城の中へと戻っていく――

少女はゴメスの許婚(いいなずけ)だった。少女が生まれたときに、少女の父親である当時の国王とゴ

メスの父が約束を交わした。だから子供のころより少女のことは知っている。いずれ己の妻になるのは

この姫だとも思っていた。だがそれを喜ぶわけでも悲しむわけでもなかった。そうか、と了解していたに

過ぎない。

もとより、ゴメスは「女性」に興味を持つことがなかった。ただただ真面目を絵に書いたような性格、ひた

すら勉学に励み、武に長けるよう己を鍛えた。勤勉さだけが取り得の男だと己を見極めていたのであ

る。不器用な質(たち)をゴメス自身が一番よく知っていたのだ。

その甲斐もあって父から受け継いだ地位も、また国王の信頼も揺るぎない。他の貴族たちからも煙た

がれることもあるものの、それなりの人望もある。思い通りの人生を歩んできたと言える。番狂わせが

あるとしたら、それはたった1つである。

少女が年頃となり、そろそろ嫁がせたほうがよかろうと話がまとまるとゴメスは城に呼ばれた。

「いきなり夫婦となれば戸惑いも強かろう。明日より暇を見ては姫と二人で過ごし、気心を通わせよ」

王の命とあればゴメスに否はない。それもまた勤めの1つほどにしか考えていなかった。しかし・・・

夕暮れの淡い光の中、小鳥たちがそれぞれの帰るべきところへと飛び立っていく。それを見送る少女、

寂しいと瞳が言っている。「帰りましょう」、慌ててゴメスは声を掛けた。そうしなければ小鳥たちを追っ

て、少女も飛び立ってしまいそうな不安に襲われたのだ。もしそうなったならば、自分はいつまでも少

女の姿を探すだろう。立場も地位もかなぐり捨てて、少女を探して流離(さすら)うだろう。だが、そんな

ことはできない。少女に飛び立たれては困るのだ。差し出された白い小さな手に、この人をお守りしよ

う、若いゴメスは心に誓った。

「小鳥がお好きなんですね」

ある日ゴメスが少女に言った。少女がニッコリと笑い、熱いものをゴメスが感じていると、

「ええ、わたくし、美しいものが好きなんです」

と、瑠璃色の小鳥を目で追いながら少女が答えた。

その夜、自室に戻るとゴメスは鏡に映る己の姿を呪うように見詰めた。ゴワゴワと縮れた黒い髪、角張

った顎、平たく潰れたように横に広がった鼻、申し訳程度の小さな目、およそ「美」とは程遠い。

わたくし、美しいものが好きなんです―― 少女の言葉が耳から離れない。ゴメスは鏡を見詰め呟い

た。

「お前が愛されるはずはない」

その声は呪いとなって鏡の中のゴメスを震わせた。鏡の中の己が笑う。――愛されたいと思っていた

のか?

「まさか・・・」

苦笑してゴメスは鏡を隠すように黒い布をかぶせた。

初めて味わう、締め付けられるような心の痛み、それが「恋」というものだと、ゴメスに教えてくれる人は

いなかった。自分は愛されようなどと思ってはいない、ただ姫をお守りするため、そのために夫に選ば

れただけの身の上なのだ。心の震えを、王家の姫に対する緊張からと受け取り、自分の立場をそう思

い込むことで己を納得させた。

今もそのときの鏡はゴメスの寝室の片隅にある。布が払われることはそれから一度もない。

いや、たった一度だけある。それは婚礼の夜のことだった。

さすがのゴメスも、妻となった女性と夜を共にするともなれば、どういった営みを行うべきか知らぬはず

もない。だが、相手は王家の姫である。まして自分のようなものが、と躊躇わずにはいられない。そし

て、はたして姫は我が妻になることをどう思っているのか・・・

「どうかされたのですか?」

黙ったまま距離をおき、動かぬゴメスに妻が問うた。

「姫は・・・」

絞り出すような声でゴメスは妻に問い返した。

「このゴメスの妻になること、お厭ではなかったか?」

妻は驚くでもなく悲しむでもなくゴメスを見た。

「ゴメスは・・・わたくしでは不満であったのか?」

滅相もない、慌てて頭(かぶり)を振るゴメスに、妻は静かに続けた。

「わたくしは・・・この世で一番美しいものをわたくしのものにしたいと思ったのです。それにはゴメス、あ

なたの妻となるしかないでしょう」

「姫・・・?」

ゴメスは妻となったばかりの少女の顔を見詰めた。少女はあどけない笑みをゴメスに向ける。

「ゴメスよ、あなたの持っている『この世で一番美しいもの』をわたくしに下さるのなら、喜んであなたの

妻となりましょう」

食い入るように少女を見詰め、そしてゴメスは黙って自室に戻っていった。少女がそんなゴメスを驚きと

悲しみの瞳で見送っていたことをゴメスは知らない。

自室に帰るとゴメスは鏡を恨みと呪いの心で睨みつけた。姫が望みは己の財と、嘲りもした。そんな思

いも、少女に対する己の恋慕からだと気がつかぬうち、またもその心を封じ込めた。

いっそ鏡を打ち破ればどんなに気が晴れよう、だが物にあたるは小者と己を諌め、鏡に布をかぶせな

がら呟いた。

「それが姫の願いであれば・・・」

それがかの女(ひと)の願いであれば、どんなことでもかなえよう・・・ それからのゴメスが、金に飽かし

て美しいといわれるものを収集していることを知らぬものはいない。

時に宝石であったり、絵画であったり、服飾品であったり・・・ 美しいと聞けば、多少遠いところであろう

と自ら出向いて買い付け、必ず妻の部屋へと運んだ。

「姫の欲しかったものはこれか?」

ゴメスに妻が頷いたことはない。

だから夫婦となって何年も経つが未だ結ばれることもなく、朝夕の挨拶以外に二人が顔を合わすことも

なくなった。

広い妻の部屋も、ゴメスが集めた雑多な品物で埋め尽くされ、今では手狭となった。あるいは己を拒む

ための言い訳であったか? ときおりゴメスはそう思わぬでもない。それでもゴメスは美しいと聞けば、

やはり出かけて行っては買い取って妻のもとに届ける。今度こそは、と心の奥で思いながら・・・

妻の髪を梳いていた侍女がゴメスに気付いて部屋を下がる。妻はゴメスを見ることもなく、なにを言うで

もない。

「・・・美しい吟遊詩人がスカルの広場で歌っている。近いうち、我が家に連れ帰ろう・・・」

あなたのために・・・ 最後の言葉を口にせぬまま、ゴメスは妻の部屋をあとにした。妻がひっそりと泣い

ている理由に思い至れるゴメスではなかった。
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