<4>

黴臭い裏路地のさらに奥まったみすぼらしい家の戸を、音を立てぬように開けてそっと覗き込む。くぐも

ってうめくような声と何かが軋む音、確かに誰かが蠢いている。怒りとも悲しみとも諦めともつかぬ感情

に凍てついたように立ち尽くしていると不意に足が宙を蹴った。後ろから来た何者かに抱き上げられた

のだ。抵抗しようにも万力のような力でどうにもならない。知っている限りの罵詈(ばり)を浴びせている

と、いくばくかの金を掴まされた女が姿を消した。

「――!」

ハッと目を覚ますと、窓から光が差し込んでいる。部屋の奥まで光が届いているところを見ると、夜が明

けて間もないのだろう。

幾度となく同じ夢を見る。そのたびにじっとりと気持ちの悪い汗が身体を濡らした。乾いた布でそれを拭

きながら、ゼファーは薄く笑った。

身支度を整え階下に降りていくと、金色の髪をした男が粗末なテーブルで不味そうなスープを口に運ん

でいる。相変わらず男に表情はない。傍らにおかれたパンに手を伸ばしたとき、階段を降りてくるぜファ

ーに気がついたが、すぐに視線を戻し何事もなかったように食事を続ける。

「よう、ゼファー」

カウンターの中から眠たそうに店主が声を掛けてきた。軽く手を上げて笑顔を返すと、

「お前も何か食うか?」

と、鍋を覗き込んだ。

「いや―― すぐに出かける」

昨夜あれから、一人で飲んだ酒が今も胃の腑に残っている。雑多な匂いの混じり合ったこの店から、早

く出ていきたかった。

自在戸の閂(かんぬき)をあけて店主がゼファーを見送った。

「あこぎな稼ぎはするなよ」

呟くような店主の声に、ゼファーは曖昧な笑顔で答えただけだった。

スカルの広場にはすでに開いている露店があった。客は夜の女たちがほとんどだ。昨夜の稼ぎで今日

の糧を買い入れる。今夜客が付かなければ明日には口に入れる物がない。

「なにが『わが国は豊か』、だよ・・・」

泉水の囲いに腰をかけ、ゼファーは呟いた。

たとえ豊かであったとしても、その恩恵に預かれるのは限られた一握りの人間だけだ。多く庶民は搾取

され、虐げられ、豊かであることすら知らずに死んでいく。それでも寿命をまっとうできれば幸せだ。

脳裏に女の面影が浮かび、慌ててゼファーは首を振った。追憶に浸っている暇はない。

一人の少女が、ある露店の売り子となにやら交渉している。売り子は憐れむような視線で少女を見る

が、頷くことはできないようだ。

所々に継ぎのある、それでも綻びを隠しきれない薄汚れた衣服、煤けた顔は目だけがギラギラと大きか

った。

隣の、パンを売る店の売り子が少女に声をかけた。少女の所持金でもパンならば買えるのだろう。それ

でも少女は先の店に並べられた瑞々しい果物を睨みつけている。

たぶん少女は、今日もまた一欠らのパンを買うのだろう。ゼファーはそれを見届けることもなくスカルの

広場をあとにした。向かうのは少女の住処である。

この街に来て、初めに目をつけた少女だった。似ている、と思った。だからあの少女に決めた。

昨日掏り取ったゴメスの皮袋には思いのほかの大金が入れられていた。詩人に対する見せ金に使うつ

もりだったのだろう。これだけあれば借金を返してなお、少女の母を医者に見せることもできれば、少女

が大人になるくらいまでは暮らし向きに困ることもない。

少女は酒場の厨房で皿洗いをして日払いで支払われる給金で病の母と二人きりの生活を支えていた。

一方で身を粉にして働いて、それでも重なる借金に喘ぐ生活があり、一方、その借金を貸している方に

はたかが詩人に歌を歌わせるためだけにその借金の何倍もの金を支払う奴がいる・・・ ゼファーの胃

が重いのは昨夜の酒のせいばかりではなかった。

金はボロ布の袋に入れ替えてある。皮袋から足がつきかねない。

立て付けの悪い戸を押し開いて中の様子を窺うと、奥からしわがれた、咳込む音が聞こえる。

「・・・・これを使え」

押し殺した、それでも奥にいる者に聞こえるような声でそう言い、金袋を放り込むとゼファーは踵を返し

た。

来た道を、顔を隠すように足早に戻る。と、すぐそこに金色の髪の男が立っていた。

「お前・・・ つけてきたのか?」

「昨日、お前がわたしにしたと同じことをしたまでのこと。 ――悪戯を見つけられた子供のような顔をす

るな」

言い返えそうとしたゼファーが急に口を噤んだ。詩人の後方から、あの少女が路地を曲がって姿を現し

たからだ。案の定、大事そうに抱えているのはパンの包み、昨日よりはいくぶん上等のパンなのはあ

の売り子が同情したからだろう。せめて少しでも元気が出るようにと、病の母のために欲しがった果実

は今日も手に入らなかった。だが明日こそ、少女のささやかな願いがかなう。

「それはどうかな?」

「・・・?」

見透かしたようなことを言うと詩人はゆっくりと歩み始めた。

「どこへ行く?」

わけのわからぬまま追うゼファーに、振り向きもせず詩人は答えた。

「スカルの広場に―― 今日で歌い納めだ」

「この街を出るのか?」

「竜を探して西へと旅をしている」

「竜? なんだ、それは?」

詩人が足を止めてゼファーを見詰めた。

「竜は、竜だ。 ――お前の中にもどうやら巣食っているようだな」

変わっていると思ったのは間違いで狂っているのかと、ゼファーはあんぐりと詩人を見詰めた。

「だがお前の竜はまだ解き放つときを迎えていない」

そんなゼファーを気にすることもなく詩人は続けた。

「今夜、1頭の竜を解き放つ。興味があるならついてくるがいい」

それだけ言うと詩人は、スカルの広場へと足を向けた。

昼も近付けばスカルの広場に食べ物の匂いが漂ってくる。屋台を目当てに人も集まる。それから日がと

っぷりと暮れるまで、人の波が絶えることはない。

少女の家の前から真っ直ぐここに来た詩人は泉水の前に場所を取り、それきり歌うでもなく、なにをす

るでもない。ときおり冷やかしか、詩人を覗き込む輩もいたが詩人の冷たい目に一瞥されて、ほうほう

の体で退散していく。

酒に凭れたゼファーの胃も夕刻には飢えを訴えた。そう言えば今日は何も口にしていない。カシス水を

買い込み、パスタと野菜をトマトで煮込んだ鍋を置いている屋台を覗いていると、柔らかな、そして透き

通って心に響く竪琴の音(ね)が聞こえてきた。

「ようやく始める気になったようだね・・・」

屋台の女主が鍋を掻き混ぜながら呟いた。

「おにいさん、あの詩人の連れかい?」

「いや・・・ 昨日同じ宿に泊まっただけだ」

「ならいいけどねぇ・・・ 得体が知れないもんには近寄らないほうが身のためだよ」

ゼファーが着かず離れず詩人といることに気が付いていたのだろう。

「得体が知れないっていうのは、本人が隠しているからにほかならないよ。隠すような何かがあるって

ことさね。 ――はいよ、1リール75キム。食い終わったら椀は、そこの水を張った樽に浸けておいてお

くれよ」

心地よいバリトンが広場の喧騒を撫でるように流れていく。行き交う人の波は変わらず、それでも誰も

が一度は足を止めて詩人の歌声に耳を傾ける。いつしか詩人の周りはぐるりと人垣ができていった。

黒いローブを裏返し、深紅の面を身にまとって詩人は歌う。宵闇に包まれ始めたスカルの広場で、輝く

黄金の髪はさながら空を染める朝陽のように、深紅のローブは朝焼けに染まる空のように、見る者を魅

了した。神か、悪魔か・・・ 酒場の親爺の言葉をゼファーは思い出していた。

詩人が歌いだして小一時間も経ったころ、人込みを掻き分け詩人に近付いていく一人の男がいた。縮

れた黒い髪、ごつい体躯、ゴメスだ。理由のわからぬ不安に襲われてゼファーもまた、詩人に近寄って

いった。

「詩人よ――」

ゴメスを認めても詩人は歌を止めなかった。

「――詩人よ・・・」

愁いをおびた旋律が薄闇に溶けていく。悲しい恋物語が竪琴の音色に乗って空へと消えていく。

「・・・・詩人よ、聞いてくれ――」

詩人は詠う。――かの女(ひと)こそ我が愛のすべて――

「・・・・・」

詩人がやっと歌を終えたとき、ゴメスはその場に蹲り、項垂れて地を見詰めていた。膝で握り締めた拳

には涙で濡れた跡がある。

「――屋敷はどこだ?」

その声にハッとゴメスは詩人を見た。

「やっとわたしの歌を聞いてくれた。礼に屋敷を訪ねてもいい。ただ、今夜でこの街をあとにする」

「―― それでも、それでもいい。我が屋敷に来てくれさえすれば・・・」

しょせん詩人は物ではない。己が物にしようなど無理な話だったのだ。だがこの詩人の姿を、歌声を、

美しいものを愛する妻にせめて見せ、聞かせてやりたい―― ゴメスの心は変わっていた。

「ただ連れがいる」

「連れ?」

詩人が振り返り、ゼファーを見た。

「行くぞ、ゼフィール」

ゼファーは屋台の女主の冷たい視線を背中に感じ、それと同時に酒場の親爺の言葉を思い出してい

た。

(神か、悪魔か――)
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