2002/02/15(Fri)

週末である。土曜が休みなので連休なのだが、これといってすることもない。そこで「趣味と実益」に走るわけである。要するに、普段行っているのとは別のバイトをするわけだが(本人はこっちが本職だと思っているが世間は認めてくれないのだ! 収入は同じくらいなのにね)、おかげで、入る一方で、使い道のない「金」は自然とたまっていくことになる。


守銭奴とは、持っているにもかかわらず、使うべき金を使わない奴を言う。溜め込むことに喜びを見出し、金の存在の意味を考えることもない。


必要と感じたら、惜しみなく使う自分は、決して守銭奴ではないはずだ。聞いてるか、おい!!(怒)
<個人的メッセージですみません――トホホ>




2002/02/16(Sat)

禁煙が一日ももたなかったことを反省しつつ、タバコを燻らせながら日記を書いている(をいをい^^;)
さて今日は、知り合いの子供さんの保育園の「お楽しみ会(学芸会)」に、カメラマンとして引っ張り出された。ホームビデオを撮って欲しいというのだ。
行ってみると、いるわ、いるわ…… おチビちゃんの群れ! 保育園なのだから当たり前なのだが(笑) 
自分ほど若いお父さんはさすがにいなく、先生とでも勘違いされたのか、おチビちゃんたちに引っ張りだこ。もちろん悪い気はしない。


子供が無邪気に見えるのはフィルターを通していないからである。目で見えるものをそのままに、耳から聞こえる音をそのままに、皮膚に触れる温度をそのままに、脳へと伝え、そして感じたことから思った通りのことを、そのまま表現するからである。


そもそも感受性とは、「そんなもの」であったはずだ。




2002/02/17(Sun)

子供たちに心和ませてもらった昨日。打って変わって今日は不快な気分に。子供というより、「親」に、って言うのが正しいけどね。
日曜でもやってる病院があって、そこに行ったんだけど、やっぱり、混んでるわけ。内科で日曜やってる病院は少ないからね。待合室に具合の悪そうな人たちがごろごろしてる。そこに、小学校4年くらいの男の子が母親に連れられてやってきた。まぁ、どこか悪いんだろうけど、比較的元気。来るそうそう、「こま回し」を始めた!!
紐をくるくる巻いて回す奴ね。大騒ぎするわけじゃないけど、診察室へ向かう通路の途中だ。しかも周囲には具合が悪くってぐったりしてる幼稚園くらいの子供とか、赤ちゃんもいる。
小学校4年といったら、病院で静かにしなくちゃいけないのは判っていい年頃じゃないかな? だけど、そういうマナーを知らない子の親って、たいてい子供を叱ることも、たしなめることもしないんだよね。それどこらか「今度は反対回しするよ!」なんて言ってる子供にうなずいたりしてる。呆れてものが言えない。思わず、母親を睨み付けちゃった(笑)
するとさぁ、何で睨まれたか、ちゃんと知ってるんだよ。その母親、子供に何か耳打ちした。するとその子、こま回しやめたじゃん。なんだよ、わかってるなら、最初からさせるな!
って言うより、おばさん、何で内緒話なんだ? こちらに聞こえないように、口元を手で隠し、ひそひそやったんだ? 「あの人が睨んでるから」「怒ってるから」って理由でやめさせたのは一目瞭然じゃん。そうじゃないだろう? してはいけないことをしてるから、睨まれ、不快を表さんだ? 「あの人が睨んでるから」ヤとってじゃないのよ」という、もっともな理由を、ちゃんと子供に教えてあげられないの? それをあなたは知ってるんじゃん。「してはいけないことをしたから」睨まれたって知ってるじゃん。子供が「こま回し」を止めたのが証拠だよ。


子供が親から学ぶことは親の想像を超えている。言葉や生活習慣だけではない。ものの考え方から人への態度、果ては人生観…… そして一番重要な「愛し方・愛され方」を学ぶのも親からである。親がそれを教えるつもりがなくても、自然と子供は学び取っているのだ。


「叱らない」のが愛情と、履き違えたくはないものだ。





2002/02/18(Mon)

昔、趣味の集まりで、リーダー的位置にいたときがあった。名前としてのリーダーはほかにいたのだが、実質的に仕切っているうちの一人であったわけだ。
集団というものは面白いもので、ルールを作りたがる。気がつくと、「禁止要綱」が山のように(!?)出来上がっていた。
創作活動の集まりである。もっと自由であっていいはずだ。そんな考えの自分の含めた数人と、規律は必要と譲らない数人。当時の「実力者」が真っ二つに分かれてしまった。
数日に渡る話し合い、そして精神的対立…… 結局、相手方のほうがその件に関して熱心だったこともあって、情勢は向こう側へと流れていく。もともと気質的に自由気まま(早い話が我が儘)な自分がさじを投げたことにより、僕のシンパも方向性を失い、「規律優先派」が実権を握った。そして数ヶ月後、除名の憂き目(?)を見ることになる。
そのグループが今、空中分解しそうだという。何とかしてくれと泣きついて来ている。僕の心配が杞憂ではなかったのだと、今になってわかったといっている。
あれ以来、どこかに属することが嫌になった。二人以上の人間が集まれば、意見の対立が生まれるのは当たり前であり、それを調整する煩わしさに嫌気がさしたからだ。
それが今日、よく行くチャットのグループの一つに名前を連ねることを承知してしまった。「勧誘」(笑)が熱心だったことと、情に絆されたことが大きな理由だ。



規律がない集団を「烏合の衆」という。しかし、過ぎた規律は弱者切捨ての要因になりかねない。


難しい調整が自分なんかにできるとは到底思えない。かといって見捨てる気にもなれない。困ったものだ。
そしてもう一つ、


確かに個人は「孤」であり、単独で存在する。それでも、人間はいろいろな形で仲間を求め、「孤」である「虚しさ」を忘れようとする。それは人間が、集団の中においてしか「孤」である自分の存在を維持できない生き物であるからだ。他者との折衝がなければ、「喜怒哀楽」の感情も生まれてこないし、その感情が持てなければ、人間であるかさえ怪しくなってくる。


コミュニケーション機能が発達し、一言も口を聞くことがなくても生活できる現代、特に都会といわれる街が殺伐としているのは、このあたりに原因があるように思えてきた。
話が重たくなった。





2002/02/19(Tue)

憂鬱である。なぜかしら気分が優れない。自分がしていることを振り返り、「ギャッ!」っと叫んで消えてしまいたいような気持ちになったり、なにをするのも億劫だったり…… そのくせ、不思議と筆は進んでいる。仕事として貰ったものとは別に2本、同時進行で書いていて、少しも苦にならない。言ってみれば「神経過敏」になっているのだろう。楽しみで書いているとは言え、少しでも完成されたものをと、無意識が働いていることは否めない。神経は研ぎ澄まされ、言葉の一つ一つ、文字の一つ一つに精神が集中されていく。


白紙の紙に「文字」がひとつ書かれれば、その紙は俄かに意味を持ったものと生まれ変わり、人を動かす力を持つ。


言霊は現世にも息づいている。





2002/02/20(Wed)

キーホルダーをポケットに入れておいたところ、付けておいたマスコットがなにをしたわけでもないのに外れてしまった。大事な人からのもらい物である。そんな時、その人の身の上が案じられるのは自分だけだろうか。


迷信と一からげに片付けてはいけない。気が遠くなるほどの経験や、積み重ねられた知恵の賜物も含まれている。


もちろんその人に変わりはなかった。





2002/02/21(Thu)

先日知人に本をプレゼントしたのだが、何を送るとは言わず、ただ「贈り物したからね」とだけ告げていたら、かなり楽しみにしていたようで自分としては心苦しく、まぁ、いわばここで、今日はその言い訳をしたいと思う。
贈った本は絵本である。「100万回生きた猫」という本で、知っておられる方も少なくないだろう。
100万回生きても自分の人生(?)をおくれなかった猫が初めて自分を生きたとき、人生の意味(大切なもの)を見出す。そんな話である。
100万回生きるより、たった1度の人生を有意義に生きる――自分自身を大切にする――ことにより人生の意味を見出せるのだと説いているように自分は思う。
そうは言うものの、僕とて人生の意味を見出しているわけでもなく、今書いたこととて、僕の勝手な感想だし、本を贈られた(押し付けられた?)人が、同じこと感じる保証もない。ただ僕は独断と偏見で、自分と同年代のその人のこれからに、その本が少しでも役に立てばと思った次第で、つまりは幸せを願っているということで……
堅苦しいことは抜きにして、読書を楽しんでもらえればそれだけで十分嬉しんだけどね


己の魂で感じ取り理解しない限り、どんな優れた知識も芸術も、血となり肉となることはない


ひょっとしたら、その本を通じて自分自身を理解して欲しかっただけなのかもしれない、と今思った。





2002/02/22(Fri)

short story の3作目がそろそろ出来上がる。今度は平安朝後期を舞台に、ちょっと妖しい話(笑)
ところで人間にはもともと『怖いもの』に対する好奇心があるんじゃないかと思う。多くの動物が『火』を怖がるのに、人間は火をある程度扱えるようになったのは、その好奇心の賜物じゃないかな? オカルトやホラーに需要があるのもその証拠。
根底を探れば『未知への憧れ』 どうしてなのか、何ものなのか?―― その疑問が文明をここまで発達させたといっても決して過言ではないように思える。


新しい恋の方が魅力的に見えるのは、対象がいまだ未知の存在であるからに他ならない


裏を返せば、古女房には魅力がないってことになるけど、実際はそんなこと決してない。
明日の日記はそのことについて書こうかな(笑)





2002/02/23(Sat)

ところで、誰かを好きになるのはどうしてか、という話なのだが、それは『自分を理解してくれる』ことにより、自分の存在を認識できるからだ、という説がある。
一理あると思う。所詮人間は他者との係わり合いによってしか、己を認められないのだ。


古女房が恋しいのは1番の理解者であればこそ


昨日の続き(笑)





2002/02/24(Sun)

この週末はなんとなく慌しく、休日だと言うのに、かえって疲れてしまった。しかも予定していた作業も終わっていない。


怠っておきながら言い訳は怠らない


――(^▽^;)





2002/02/25(Mon)

インフルエンザが流行っている。
内科の病院(ほかもそうかもしれないけど)に行くと満員御礼、そのほとんどがインフルエンザの患者といっても過言でない。
昨日、日曜だというのに知人の子供が熱を出し、某小児病院(公立)に連れて行ったところ、インフルエンザ「だろう」と言われた。なぜ、「だろう」なのかというと、インフルエンザかどうか調べる試薬が足りないから、検査しなかったからである。「今日来てる患者、ほとんどみんなインフルエンザ。まず間違いないから」と、それ用の薬を処方され、翌日罹りつけ医に行くよう指示された。
で、今日、罹りつけ医(一般開業医)につれていったそうだが、「○○病院も(試薬が)とうとうなくなったか! うちなんか、とっくのとうに(試薬は)なくなってるよ」と、言われたそうだ。それほどはやっていると言うことである。


人の作り出したものには限界がある。その性能も、数も、自然にはかなわない


いろいろな意味でね





2002/02/27(Wed)

日記を始めて以来、初めて昨日サボってしまった。前日書いた「インフルエンザ」に、どうやらやられてしまったらしい。月曜あたりから発熱(一時は39度を越えた!!^^;)して、それでも仕事を休むわけにも行かず、昨日はとうとう帰宅直後にダウンxxx って言うわけで、今までで一番もっともらしい言い訳かな?


今日を乗り切れば明日がある。明日を乗り切ればその次が…… 時間が未来永劫続くのは希望であり、慰めであり、励みであり、そして苦痛でもある。


要は受け取り方次第。





2002/02/28(Thu)

と言うわけで(どんなわけだ?)、とうとう仕事を休んだxxx 休んだと言っても、これを書いているのは3/1で、28日まではそれでも頑張っていってたのだからいいほうだろう(自己満足) 職場も軒並みやられてしまって順番に休んでる状態だからね、まぁ、今後の進行状況が気になるが、何とかするしかないだろう……
って、アルバイトなんだよね。アルバイトなんだから、ここまでする必要もなかろうと思うのに結局あれこれ気をまわし、要はでしゃばってるわけでー―


人を動かすのは身分でも、金銭でもない。そんな「餌」をばら撒かずとも、必要とされている、という充実感のみで、動くときは動く。

不完全燃焼―― 体調が悪いと言うことで、許しといて(笑



      

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